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「奏ー。お風呂入ろうか」  いつものように脱衣所にあるBluetoothスピーカーのスイッチを入れ、スマートフォンとリンクさせる。あれからひとしきり泣きはらし後にやっと機嫌を取り戻した息子は、水鉄砲を手に取り、服を脱ぎ始めた。「それじゃ、服が脱げないでしょ」と息子へ投げかける中で、ノーシミュのインディーズ時代の曲が私の鼓膜を心地よく振動させた。至福の時間の始まりだ。私がゆっくりと大好きな音楽に浸れる時間は、この浴室内だけだ。ここを出れば、音楽は子供向けのテレビ音に変貌し、聴きたくない音へ様変わりした。  今ここにある曲達はエコーを心地よく響かせ、まるで浴室が小さな小さなライブハウスのように思えた。奏が産まれてから約四年。あれから一度もライブハウスには足を運んでいない。浴槽内で水鉄砲を握り、機嫌よく遊んでいる奏をぼーっと見つめながら、曲の中へダイブした。心地いい。私は本当に彼らのインディーズ時代の曲が大好きだ。以前の彼らの曲は、とても荒々しく、激しい。そして力強くて、もろい。そんな静と動の空気感を持ち合わせ、私を震撼させた。ボーカルの弘本蓮也が全て作詞作曲をするこの曲達は、粗削りだけど、そこには必死さと鋭さが何よりも滲み出ていて、メロディーにも歌詞にも、荒れ狂う海原のような才を感じ、いつも圧倒されていた。そんなノーシミュは今までラブソングを歌っていなかったわけではなかった。デビューのきっかけとなったSNSで話題を集めた曲も、その手の曲だった。だけど、そんな曲の中でも彼らの尖った個性は曲調の中で鮮明に発揮され、今のような甘々しいものではなかった。ラブソングは若手のミュージシャンの中で王道だ。まだ二十代半ばの容姿端麗な彼らのその活動を盛り上げるためには、若い子達を虜にするような甘い曲を打ち出す方法は、決して間違ってはいないのだろう。その方法が私も一番適切だとは思う。音楽業界はきっと私が思う以上に過酷なはずだ。色んな人員や金銭をかけ、メジャーデビューを果たしたからには、その世界で生き残らないといけない。生き残るためには、曲を大勢に聴いてもらわなければいけない。私だって分かっている。だけど彼らは本当にそれで良かったのだろうか。納得しているのだろうか。そして、取り残されてしまった私の感情はどこへ行くのだろう。 「ママー、次、パパいつ帰ってくるのー?」 「今度のお休みの日かな。あと三回寝たら帰って来るよ」 「やった! パパと一緒にでっかい虫、捕まえに行くんだー」  現実に引き戻される。あと数日経てば、夫と顔を合わせることになる。全国チェーン展開するホテルの経営管理という仕事を任せられている夫は、二年前にこの福岡にある九州支店へ転勤が決まった。その時、私達は東京から移り住んだ。それから夫は九州内を飛び回り、ほとんど家にいない。運動会にも息子の誕生日でさえも仕事で帰って来れないと言う。なのに何でもない日に大量の衣類や不必要な物をいつも引き連れ、ふらりと帰って来る。そして何もしない。ただ、だらだらと過ごし、子供と時々遊ぶだけだ。「少しは家事手伝ってよ」とちくりと言えば「たまにしか家に帰ってこないのに、そんな細かいこと言うなよ」で済ませられ、終わる。それじゃ、私は。私の毎日はこの繰り返しでしかないのに。ただの一度だって休まることもないのに。  夫と恋愛をしたあの感情は、とっくの昔に枯れ果てていた。夫なんていない方が遥かに心が軽い。だけど、金銭面や奏の今後のことを考えると別れる勇気もなく、別の相手と恋愛することも許されず、ただこの鬱々とした日々が繰り返されるだけだ。ふと、私の鼓膜に大丈夫だよと強く語りかけるように、ノーシミュの若いボーカルの声が降りかかる。もろくて儚くて、力強いサビが、歌詞が、私に活力を与えてくれる。だけど、今の彼らが奏でるパンケーキのような甘い曲は、とてつもなく、いらない。 「僕、クワガタ見つけたいんだ!」 「そっかぁ。けど、クワガタはね、暑い夏にいる虫なんだよ。今は寒い冬だからいないの」 「えー! ぜったいいるもん! 僕、テレビで見たもん!」 「テレビに映っていても、今の季節にいるわけじゃないんだよ」 「ウソだ! 僕、パパとぜったい見つけてくる!」  そこまで言い張る息子に、これ以上の事実を伝える気力は今の私にはなかった。奏にとっては受け入れがたいこの現実を。
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