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 数日経った朝、久々に帰って来た夫は、すぐに奏から虫取りをせがまれた。「はいはい」と仕方なさそうに言いながら、大量の洗濯物が入ったボストンバッグを玄関にどすんと置くと、そのまま虫取り網と虫カゴを持って、凍てつく空の下へ二人で出掛けてしまった。私は冷え切った玄関の中で、誰にも聞いてもらえることのない大きなため息をつき、置かれていた大きな鞄を持ち上げた。そのまま洗濯機がある脱衣所へ行こうと、リビングを通り抜ける時、テレビが点いたままだということに気が付いた。先程まで奏が見ていた戦隊番組から、いつの間にか朝のワイドショーが流れている。テレビを見ない時は電源を切りなさいといつも言っているのに。私はまた小さなため息をつくと、テーブルに置かれていたリモコンを手にし、電源ボタンを押そうとしたその時だった。灯る画面から聴き慣れた声が届いたのは。  どこかで行われていた野外フェスの映像だった。弘本蓮也がマイクを持ち、ステージの上にいた。この寒い時期に汗を額に貼りつけ、熱唱している姿だった。他のメンバー達もギターやベース、ドラムをそれぞれ真剣に奏でている。大勢の観客達は彼らに手をかざし、甘いメロディーに合わせ、気持ちよさそうに腕を左右に動かしていた。その後、すぐに映像は切り替わり、次の画面が映し出された。そこに現れたのは、ステージ上の彼らではなく、晴れ渡る冬空の下で、仲良く並んでこちらを見つめる姿だった。 『ワイホフェス、最高っした! 見に来てくれたみんな、ありがとう! マジ大好き!』  蓮也が口を開いた。ライブ直後らしい。メンバー全員の髪の毛は汗に濡れ、それぞれの首筋は光っている。 『おまえちゃんと真面目にやれよ! 全国放送されてっぞ!』 『俺はいつも大真面目ですよ!?』  いつもふざけたことばかり喋るこのボーカルは、他のメンバーからとても愛されているように見えた。 『ノーシミュレーションのニューシングル『来たる君に』、俺、めっちゃ頑張って作ったんで、ぜひ聴いてくださいっ! めっちゃいい曲なんで! ぜひっ!』  蓮也は軽快に勢いよくそう言うと、頭をバッと足元へ下げた。そこから微動だにしない。膝にくっつきそうな程の頭をメンバー達が鷲掴みにし、笑い、楽しそうにふざけあっている。次に映し出されたのは先程の野外フェスの映像だった。『来たる君に』を声を詰まらせながら歌う蓮也の横顔だ。その瞳にはステージのライトにきらりと光るものがたくさん貯まっているように見えた。出産前に何度か参加したノーシミュのライブでも、蓮也は歌いながらよく泣いていた。何度も「ありがとう」と言いながら。 「クワっ、ガタ、いなっ、かった……!」  二人が出掛けてから二時間程経った時、奏が号泣しながら帰って来た。玄関のたたきに立ち尽くし、泣きすぎてしゃっくりまでしている。隣では全ての荷物を持たせられ、困り果てている夫も佇んでいた。とても疲れているようだった。 「だから言っただろー。冬にクワガタはいないんだって。幼虫ならいるかもだけどさー」 「いなかった、だけ、だよ! だって、テレビは、テレビはっ……!」 「奏、夏になったらまた探そ?」  涙をぽろぽろと流す息子の前にかがみ、夫と二人で奏の機嫌を戻そうとするが、一向に泣き止まない。 「なんでっ、パパもっママもっ、そんなこと言うの! ……ぜったい、いるもん!」  奏は靴を乱暴に脱ぎ捨てると、部屋の中へ飛び込んでしまった。夫も虫カゴや虫取り網をひっくり返った靴の近くに置くと、重い足取りで部屋へ入っていった。  こんな寒い時期にクワガタを捕まえようとするなんて大人なら絶対やらない。だけどそれが子供には分からないし、伝わらない。何度目か分からないため息をまた付きながら、跳ね飛ばされた息子の靴を揃えている時、ふとなぜか蓮也の顔が浮かんだ。「ありがとう」と言いながらステージ上で泣くあの姿が。その声が。 『ノーシミュレーションのニューシングル『来たる君に』、俺、めっちゃ頑張って作ったんで、ぜひ聴いてくださいっ! めっちゃいい曲なんで! ぜひっ!』  いつもあのボーカルは、自分で自分の作った曲を謙遜もなく『めっちゃいい曲』だと言う。私なら自分で作ったモノをそんな風には言えない。言える程、曲に自信があるのだろうと、そう思っていた。だけど、もしかすると、違うのかもしれないと、この時初めて思った。奏と蓮也の顔が重なる。いるはずのないクワガタを捕まえたいと泣きじゃくりながら訴える息子と、いつもライブで感極まり泣く彼。インディーズ時代の曲から作風を変え、ラブソングを熱唱する今の姿。必死にその曲の良さを伝えようとするあのテレビの中の姿。そこにはどうしようもなく、手の届かない何かを必死に掴もうとする二人の強い意思がひしひしと感じられた。  次の週末、また珍しく夫が帰宅した。相変らず大量の洗濯物が詰め込まれた鞄を持つ反対の手には、なぜだか真新しい黄緑色の虫カゴが握られていた。土や枯れ葉が入っている。 「ちょっと気になって調べたらさ、クワガタって冬越しする成虫もいるみたいで」  リビングに入るなり、夫の手から息子の小さな両手にそれは渡された。奏は大喜びで歓喜の声を上げている。 「ネットで買ったんだよ。ほらあの時、奏、ぜったい冬もいるって言い張ってただろ。もしかしたらあいつ、冬越しするクワガタをテレビで見たんじゃないかなって思って。俺知らなかったわー。まー俺も美咲も都会育ちだしな。後で謝っとくわ」  私に耳打ちするように小さな声でそう言うと、夫は申し訳なさそうに笑っていた。    私は息子の満足そうな顔を見つめた。目をキラキラと輝かせながら、虫カゴ越しにクワガタを見つめている。あの子はあの子なりに必死になり、子供ならではのつたない言葉で、私達にずっと訴え続けていた。それが例え可能性の低いことだと分かっていたとしても、言い続けていたに違いない。あのボーカルのように。足掻いて足掻いてそこへ辿り着くために。それは理解してもらえないことだとしても、どうしようなく大事なもので、譲れないもの。彼らは、私には決して見えていなかったものを見つめ、そして、抗っていた。 「パパ、冬でもクワガタがいるって知らなくて、ごめんなー」 「いるって言ったでしょ!」  息子は膨れっ面になり、夫を咎めた。その口調が私に似ていて、こっそりと笑んでしまった。私は二人の傍に座り、そっぽを向いている息子の横顔を見つめた。 「ママもごめんね」 「……なんでパパもママも、いっぱい謝るの?」 「冬でもクワガタがいるってママ達知らなくて、それで奏に悲しい思いをさせて、泣かせてしまったから、だよ」  息子はパッと振り向き、私を見上げた。全てが伝わるわけではないのかもしれない。ほんの少しかもしれない。だけど一欠片でもいい。その小さな瞳に、僅かでも届けば、もしかすると少しずつ少しずつ、何かが変わっていくのかもしれない。その時ふと、謙遜を一切しないあのボーカルの顔が浮かんでは消えた。  息子はクワガタとにらめっこでも始めたのか、甲高い笑い声をリビングに響き渡らせている。その隣では少年に戻ったかのように一緒になって夫もはしゃいでいる。そんな二人と一匹を見つめ、私も少し笑った。  今日も職場で流れるラジオから耳馴染みな曲が鼓膜を揺らす。私の唇はいつの間にか穏やかな風に乗せられるように、この歌を流していた。 「あ、美咲さんが歌うなんて珍しー! この曲ほんといいですもんねー」 「……私、ほんとはラブソングって嫌いなんだ。だけど、凄くかっこいいなって思う」  不思議そうに首を傾げる後輩を横目に、また私は歌った。  彼らは不様にカッコ悪く生きている。足掻きながらでも。私はそんな姿がデビュー前から大好きだ。この甘すぎるラブソングのように。
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