最悪な初恋

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 平和な日が一か月続いたら心配になってきた。なにかあったのだろうか。来たら来たで困るのに、来ないと落ち着かない。人間とは我儘な生き物だ。 「……」  連絡先は知っているけれど、なんの用もないのに連絡していいのかわからない。スマートフォンとのにらめっこは、今日も優真が目を逸らして負けた。こんなことを何回もして結局なにもできず、ずるずると一か月という時間が流れてしまった。  もしかしたら問題が解決したのかもしれない。今頃、羽原好みの華やかな美女と楽しんでいるのかも――考えたらなぜか無性に腹が立った。  仕事中は集中できるのだが、それ以外のときはすぐに羽原のことを考えてしまう。いっそすっきりしよう、と優真が休みの土曜日に連絡をしてみた。 『優真か……。どうした?』  それは優真の科白だった。電話に出た羽原は明らかに声がおかしい。 「羽原さんこそ、どうしたんですか?」 『三日前から体調崩してる。ひとり暮らしの風邪はきついな。切るぞ』 「お、お見舞いに行きます!」 『は?』  あまりにつらそうなので、ついそう言ってしまった。訝るような声がスピーカーから聞こえたが、無視して自宅の住所を聞いた。優真の自宅から十分ほどのところだった。  部屋を出てドラッグストアでスポーツドリンクにゼリー飲料、軽く食べられそうなものや冷却ジェルシートなど、見舞いセットを買い込んで羽原の部屋に向かった。  ドアの前につき、首を傾げる。どうして自分は見舞いに来ているのだろう。羽原が風邪をひいていたって別にどうでもいいはずなのに。  自身の行動を不思議に思いながらインターホンを鳴らすと、寝間着姿の羽原が現れた。 「本当に来たのか」 「行くって言ったでしょう」 「うつすわけにはいかないから帰れ」  ドアを閉めようとするので強引に押し入ると、羽原はぐったりと座り込んでしまった。 「熱はあるんですか?」 「……三十八度」 「なるほど」  見舞いセットから冷却ジェルシートを出して、熱い額に無理矢理貼る。いいから、と抵抗するが力が入らないようだ。 「ベッドに行きましょう。寝室はどこですか?」 「……奥」  身体を支え、奥と言われたベッドの置かれた部屋に連れていく。室内はモノトーンで統一され、綺麗に整頓されている。羽原の部屋、という感じだ。 「悪い」  弱々しい言葉は羽原ではないようだ。薬を飲んだか、なにか食べたか、と聞くと「食欲がないから食べてない」と答えが返ってきた。 「ゼリー飲料買ってきたんですが、これなら飲めますか? キッチンを借りてよければおかゆを作りますが」 「どうしてそこまでしてくれるんだ?」  どうしてだろう。優真にもわからない。だが具合の悪い人を放っておくわけにはいかない。来てしまったからにはきちんと看病をしたい。 「わからないけど、とにかくなにか食べてください」 「……できたらおかゆが食べたい」 「わかりました」  ベッドから離れようとすると、シャツの裾をくいと引っ張られた。 「…………卵入れて」  つけ足された言葉に、可愛いな、と思ってしまった。 「ちょっと待っててください」 「うん」  なんだか羽原ではない人のようだ。風邪の力はすごい。  おかしな疼きが心にある。それはまるで恋のような甘さを秘めていて、まさか、と首を横に振る。 「羽原さん、できました」 「食べる」 「熱いですから、火傷しないでくださいね」 「子どもじゃない」  拗ねた顔は子どものようだけれど、それは言わないでおいた。  おかゆを食べている姿を見ていたら急に緊張してきた。自分を抱きたいと言っている人の部屋に押しかけていることにようやく気がついた。 「……まあ大丈夫か」 「なに?」 「いえ」  この状態ではなにもできないか、と思ったら緊張がとけた。今は早くよくなってもらうことだけ考えよう。 「どうした?」 「え?」 「青くなったり赤くなったり、真顔になったり。おもしろいな」 「……っ」  恥ずかしくて頬が熱くなる。 「優真は優しいな」  気持ちのこもっていることがわかる言葉に、とくんと心臓が鳴った。それは驚くほど甘い高鳴りだった。 「や、優しくなんてないですよ」  頬が火照ってしまう。羽原は優真を見て口もとを綻ばせている。 「なにかして欲しいことはありますか?」 「着替えだけしたい」 「替えの寝間着はどこにありますか?」  場所を聞いて寝間着を出す。身体を拭きますか、と聞こうとして、どうしてそこまでしようとしているのだろう、と自分に疑問を持ってしまった。 「身体を拭きたいから、タオルをお湯で濡らしてきてくれるか?」 「は、はい」  洗面室でタオルを濡らして顔をあげると、真っ赤になった自分が鏡に映っていた。どうして羽原相手にこんな顔をしているのだろう、と頬をぺちぺちと軽く叩いて寝室に戻った。 「っ……」  羽原が寝間着のシャツを脱いでいて、綺麗な身体に息を呑み、動けなくなってしまった。 「ありがとう」  優真に気づいた羽原が手を伸ばすので、思わずそこに手を重ねてしまった。 「優真? タオルをもらおうと思ったんだけど」 「あっ……、す、すみません」  慌てて手を引き、タオルをのせる。なにをしているのだ、と頬がまた熱くなってしまった。身体を拭く羽原を見ていると、照れたように頬を赤くして顔を背けられた。 「そんなに見るな」 「し、失礼しました……」  背中を拭こうとしてうまく拭けないでいるので、思わずそのタオルをとってしまった。 「俺が拭きます」  自分から言ったのに、広い背中に手が震えてしまう。心臓が口から飛び出しそうだ。 「助かった」  シャツを着た羽原はまた横になった。優真は脈拍異常で倒れそうになっている。もちろん羽原は気がついていない、はず。 「……寝るまでそばにいてくれるか?」  今度は羽原のほうから優真の手を握った。なぜか嫌ではなく、その手を握り返す。 「玄関に鍵があるから、俺が寝たらそれを使って帰ってくれ。鍵はポストに頼む」 「わかりました」  羽原は優真を見つめて優しく目を細める。 「誰かがいてくれるっていいな」  いつも風邪をひいてくれていてもいい、と不謹慎なことを思ってしまうくらいに羽原が可愛く見える。瞼をおろした姿は絵画のように美しかった。世界のどこかにこんな美術品がありそうだ。  羽原が寝たのを確認して寝室を出た。まだ心配ではあるが居座っても迷惑だろう、と部屋を出ようとするとインターホンが鳴った。 「どうしよう……」  寝室の中を覗くと、羽原は寝ている。出ていいのかわからない。悩んでいるともう一度インターホンが鳴った。モニターを見つけて確認すると、綺麗な女性が映っている。なんだか嫌な予感を抱きながら玄関のドアを開けると、華やかな雰囲気の女性が不思議そうな顔をする。 「どちらさま?」 「……羽原さんの知人です」  嘘ではない。 「羽原さんが熱を出したって聞いたから来たんだけど」  女性が部屋の中を覗き込む。羽原と親しいのかもしれない。 「羽原さんは、今は寝ています」 「そう。じゃあ後は私がやるから。ありがとう」 「……はい」  追い出されるように部屋を出た。入れ替わりで女性が中に入ってドアが閉まり、唇を噛む。  優真にはなにも連絡をくれなかったのに、あの女性には連絡をしたのかと思うと胸が苦しい。恋人が来るならそう言えばいいのに、と悔しくなった。 「そうか」  あの人を抱きたくても抱けないから、優真で試そうとしているのだ。腹が立って同時に悲しくなった。自分はお試しでしかない。  翌日、羽原から連絡があった。心は複雑な感情を消化できていない。 『昨日はありがとう』 「別に」  そうするつもりはなかったが、素っ気なくなってしまう。 『どうした?』 「……」  なにをどう答えたらいいのかわからないので、無言でとおした。  ずっと店に来なかった間はあの女性と会っていたに違いない。優真が部屋に行ったのはただのお節介だったのだ。  どうして自分はこんなに悔しいのだろう、そう考えるがわからない。わかるのは、羽原があの女性にも甘えただろうということに対するいら立ち。こんなのはおかしい、と俯いた。
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