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最悪な初恋
「澤口とセックスしてみたい」
顔のいい変態はそう言った。
◇◆――◆◇
――おまえ地味だな。存在感皆無。
初恋の男性に告白したときに言われたひと言。優真は自分の地味さがわかっていてコンプレックスを感じている。その上で好きな人にそれを言われたことで動けなくなった。一方的に憧れていただけだが、あんなに嫌な人だったなんて、と帰宅してから泣いた。
高校一年の三月、青い空が澄み渡る卒業式の日のこと。相手は卒業していく三年の先輩だった。
優真は女性が苦手だ。母親が着飾ることと噂が好きな人だからかもしれない。得体の知れない生き物のようで怖く感じてしまう。
初めて好きになったのがその先輩で、いまだ錨のように心にずしんと沈んでいる。初恋を二十四になっても引きずる自分が情けないが、それくらいの傷を残したのだ。先輩――羽原義人という人は。
高校で羽原を知らない人はいなかった。整った体躯と芸術品のような顔立ちも騒がれていたが、それ以上に、なんでもできるのに努力家な姿は生徒達の目を引いた。図書委員の優真が図書室を閉める時間になっても、サッカー部の羽原は毎日のようにひとりで練習を続けていた。誰もが憧れ、認めているのに絶対に手を抜かない。上昇志向があるのかもしれないが、常に上を目指していた。なににでも全力で挑む姿に優真は惹かれた。卒業式の日、このまま姿を見られなくなるのならば、と勇気を振り絞って告白したのが間違いだった。
羽原を思い出すと苦い気持ちが全身に広がる。もう忘れたい――そう願っても、傷というものはなかなか癒えるものではなかった。時折脳裏に蘇って優真を苦しめる。
暗い気分で一日が始まった。
「おはようございます」
「おはようございます。澤口さん」
店につくと少し気分が持ち上がった。気持ちが仕事モードに切り替わったのだろう。一日落ち込んでいるのはつらすぎるのでほっとした。
和創作居酒屋「彩香」が優真の勤務先だ。格式張った店ではないがそれなりに平均単価が高く、その分きちんとしたサービスが求められる。そんな少しぴりっとした緊張感をもてる店が優真は好きだった。
「優真くん、おはよう」
「おはよう、辰井さん」
同僚の辰井と更衣室で一緒になった。辰井はつややかな黒髪に黒い瞳が印象的な、整った外見を持つ同僚だ。一七〇センチの優真が見あげる身長は一八〇センチほどある。穏やかな性格で、店では従業員や客の目を引く存在。地味な優真とは正反対の人は、制服に着替えながら優真の顔をじっと見る。
「疲れた顔してるね」
「わかる? 嫌なこと思い出しちゃって」
「お兄さんに相談してみなよ。いいアドバイスができるかも」
ひとつ上の辰井が冗談めかして胸を張ってみせるので、思わず笑ってしまった。
暗い気分になるのは優真にはよくあることだった。すべての悪の根源は羽原だ。人のせいにしてしまうずるさに自分でも嫌になるが、誰かのせいにしないと抱え切れない。
「本当に無理になったら相談するよ」
「あんまりひとりで悩まないでね」
「ありがとう」
穏やかで優しい性格の辰井は人気者で、よく熱い視線を向けられている。
優真はそんな人気者から告白された過去がある。二年前、優真が大学を卒業し、アルバイトで勤務していた彩香で社員になった頃のことだ。同時期にアルバイトとして働いていて、一旦辞めた後に社員として再び勤務し始めた辰井から突然告白された。
――一緒にいると優しい気持ちになれる優真くんが好きです。つき合ってください。
優真も辰井のことは頼りになる人だとずっと思っていたのでオーケーしようとしたが、そのとき頭に羽原の姿が浮かび、怖くなって断ってしまった。今はよくても、一緒にいるうちに否定されたらどうしよう、と考えてしまったのだ。
その後避けられることも覚悟したが、辰井はいつでも優真を心配して支えてくれる。あのとき頷いていたらこの傷も癒えていたのだろうか、と辰井をじっと見てしまう。
「どうしたの?」
「ううん。なんでもない」
慌てて目を逸らし、着替えを終える。
恋の傷は恋でしか癒やせないと聞いたことがあるが、優真は怖い。すべては羽原のせいだ。
三月の終わりは歓送迎会の予約が多い。三十人入る個室も宴会予約だった。店の入口の扉が開く音が客の来店を知らせ、個室担当の優真が出迎えに行くと、そこには「悪の根源」がいた。
セルフオーダーシステムを導入していない彩香では、今でもハンディを使っている。
「……オーダーとりたくない」
うう、と恨み節のように唸ってしまった。仕事中だと切り替えても、先ほど見た悪の根源――羽原の姿を思い返し眉が寄ってしまう。
羽原の席はコース料理の予約のみなのでドリンクオーダーをとりにいかないといけない。他の個室担当に任せようと思ったのに、そういうときに限ってデシャップ前に待機している人がいない。呼び出しベルが鳴り、モニターの卓番が光る。重い気持ちで個室に向かった。羽原にかかわらないようにすればいい、向こうも一度告白したきりの後輩など覚えていないだろう、と気をとり直す。
だが個室の扉横になぜか羽原が腕を組んで立っていた。切れ長で涼しげな瞳が優真をとらえる。色素の薄い髪や綺麗な顔立ち、均整のとれた体格もそのままだ。いや、高校の頃より大人の色気が滲んでいて、なんとなく目を合わせられない。
「来たか」
思わず逃げ出したくなるが、仕事中、ともう一度切り替えて「お待たせして申し訳ございません」とひとつ頭をさげた。
「おまえ、あのときのやつだろ」
「……」
答えない優真に羽原は首を傾ける。
「そうだな。絶対そうだ。少し雰囲気が変わってるけど俺にはわかる」
「……」
続けて無言でいる優真。これはなんだ。羽原はじろじろと見さだめるような不躾な視線を送ってくる。
「間違いない。澤口優真だな?」
「……はい。よくわかりましたね」
名前を覚えていてくれたことになぜか感動してしまう。こんな男は早く忘れたい、と思っていたのに、初恋の甘酸っぱさを思い出す自分の手軽さにうんざりする。
「わかるに決まってる。だって俺は――」
はっとした羽原は言いかけた言葉を呑み込んだように、慌てた様子で口を噤む。
「すみません。仕事中なので」
「待て」
個室の扉をノックしようとしたら止められた。手首を掴まれて振り返ると、真剣な表情の羽原がいて身体が動かない。その端正な顔が徐々に近づいてきて、怖くて押しのけてしまった。まずい、と思ったと同時に個室から人が出てきた。
「こんなとこにいたのか。女性達が羽原を探してるぞ。あ、オーダーお願いします」
「は、はい」
羽原に声をかけた男性が優真を見て個室の扉を開けるので、続いて室内に入る。オーダーをとっている間もドリンクや料理を運ぶときも、羽原はずっと優真を見ている。押しのけた感覚が手に残っていて冷や汗が止まらない。早く帰ってくれ、と本気で祈った。
営業時間が終了し、各個室の最終清掃を終えた優真は羽原を思い出した。思い切り押しのけてしまった。手に残った感覚が怖くなる。クレームを入れられるかもしれない。
ふと、言葉を呑み込んだような羽原が頭に浮かぶ。あのとき、なにかを言いかけていたのはなんだったのだろう。
「澤口さん、どうかしましたか?」
「いえ」
心配そうに辰井が声をかけてくれるので首を横に振る。もう二度と会うことはないのだろうから、本当に忘れよう。きっとこれは引きずる過去に「さようなら」の機会だったのだ、と優真は納得した。
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