最悪な初恋

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 羽原が店に来なくなった。当然だ、とため息をつく。後悔したって遅い。もう彼とは会えないだろう。  だがこれでよかったのだ。優真は羽原のお試しにつき合うつもりはなかったし、彼にだってあの女性がいる。他に結末はなかった。痛む胸を押さえると、悔しいくらい心が揺れた。  あんなにも心臓が甘く高鳴る感覚は高校生のとき以来だった。また好きにならなくてよかった――もう一度ため息を零した。 「ため息ばかりだね」  辰井に声をかけられ、はっとする。 「ごめん」 「相談にのろうか?」 「……」  なにを相談したらいいかわからないし、相談したところでなにも変わらない。もう答えが出て、終わったのだから――どうしようもない。  諦める優真を表情から見抜いたのか、辰井は苦笑する。 「優真くんはそれでいいの?」  頷くと、辰井は「そのほうが俺にとっても都合がいいかな」と呟いた。なんだろう、と顔をあげたら、重いくらい真剣な瞳と出会った。 「優真くんにもう一度告白してもいい?」 「え……」  驚く優真の手を辰井がとる。思わず身体が竦んだ。 「二年前にふられてからも優真くんだけ見てた。一生懸命で真面目な優真くんがやっぱり好きだ」 「辰井さん……」 「俺にチャンスはない?」  チャンス――優真は戸惑った。優真も辰井が好きだし尊敬している。頷けばすべてが変わる。優真の心の傷も、この人ならばきっと包んで癒してくれるだろう。 「……っ」  幸せな結末がわかるのに頷けない。優真の心が向く先は辰井ではない。 「……ごめんなさい」 「だめだな、俺」  辰井は優真の手を離して呟いた。 「それでも優真くんを諦められない」  辰井の気持ちに応えるのが正解かもしれない。これ以上傷つきたくないし羽原を忘れたい――そう思って、違うだろ、と自分を叱った。傷つきたくないから辰井を選ぶなんて、まっすぐに想ってくれる辰井に失礼だ。 「……ごめん。辰井さんを利用しかけた」 「利用してよ」  首を横に振る。 「真剣に気持ちを伝えてくれた辰井さんに失礼だから、俺は自分の気持ちに素直になるよ」 「……はあ」  ため息に心臓が嫌な動きをする。嫌われても仕方がない。それでもやはりショックだった。 「俺のことだと、そんな顔をしてくれないのにね」  寂しそうな微笑みに自分の顔に触れてみるが、どんな顔をしているかはわからない。  優真は羽原が好きなのだ。初恋のときのようなおぼろげな羽原ではなく、はっきりと輪郭をもった彼に惹かれている。普段はすました顔をしているくせに卵がゆを作って欲しいと言ったり、手を握っていてと甘えたり、とんでもないことを言い出すおかしなところまで受け入れたい。怖いけれど、それを超えるくらいに気持ちが膨らんでいた。それに今の羽原ならあのときのようなことを言わないとわかる。もし言われてもかまわないと思えるくらいに、彼のすべてが大事に感じる。 「ごめん。俺、行かないと」  羽原の自宅に向かって駆け出す。信号待ちでメッセージを送った。 『今から行きます』  既読にはなったが返信がない。それでも優真は止まらなかった。  羽原の部屋の前につき、ドアの前で固まった。勢いで来てしまったが、いるのだろうか。そもそもこんな深夜に訪ねるのは失礼ではないか。もしあの女性が来ていたら――踵を返した。 「優真」 「っ……」  振り返るとドアを開けた羽原が顔を覗かせている。 「本当に来たんだな」 「……はい」  来たくせにインターホンも鳴らさず帰ろうとしたことに呆れられただろうか。「あがって」と言われ、靴を脱いだ。室内は以前来たときより散らかっていた。脱いだ服やクリーニングから戻ってきたと思われるスーツがソファの背もたれにかかっている。ローテーブルにはグラスや郵便物が雑然と置かれていた。まるで羽原の心が乱れているように見える。 「コーヒー、紅茶、水、ビール、どれがいい?」 「ビールをお願いします」  珍しいな、の言葉とともに差し出された缶ビールのプルタブをあげる。 「俺、羽原さんが好きみたいです」 「は?」 「あんなこと言ってごめんなさい。本当は嫉妬してました」  告白の恥ずかしさをごまかすためにビールをひと息に半分ほど飲むとくらくらした。 「真っ赤だぞ」 「ふわふわします」  缶をとりあげた羽原がそれを軽く揺らして、残った中身の量を確認する。 「そんなに酒弱いのか」 「試飲でふらつきます」 「じゃあそんな飲み方するな」  呆れたような表情で見つめられた。 「ごめんなさい」  二秒ほど瞼をおろして、また羽原を見る。その視線は温かかった。胸が痛いほど高鳴り、ビールのせいではなく頬が火照る。 「俺、羽原さんのことを考えるとおかしいんです。どきどきしたり、落ち着かなかったり……嫉妬までしたり。怖いとかもう傷つきたくないとか、そういう気持ちも吹き飛んでしまうくらい羽原さんが好きです」  伸びてきた腕で抱き寄せられる。優しい体温と羽原のにおいに鼓動が速くなった。もう逃げたくなくて、しっかりした肩に額をのせる。 「そんな告白されたら、止まれなくなる」  整った顔が近づいてきて、吐息が重なるように唇が触れ合った。夢を見ているようでとろんとしてしまう。きつく抱きしめられ、硬いものが腰にあたった。 「……勃ってませんか」 「勃ってる」 「勃つじゃないですか」 「優真のおかげだ」  頬を紅潮させて唇を寄せてくるので受け止める。ふわふわ気持ちよくて徐々に眠くなってきた。 「おい――」  声をかけられているのが遠くに聞こえて、なにも返せない。羽原にもたれて瞼をおろした。
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