パニックってなんぞや。

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パニックってなんぞや。

不本意ながらパニック症を経て現在無職である。 ずっと子どもに関わる仕事をしてきた。 どっちが子どもかわかんないくらい、まるでタンポポの綿毛の如くいろんなことに興味関心がぶっとんでいくあたしにとって、子どもたちと一緒にいるのはとても楽しくて、ハッとするような発見もあって、彩りが豊かだったと思う。 大変なこともあったけど、目の前の子どもや保護者が楽しかったり、うれしかったり、頑張ろうと思うきっかけになったり、思い出になったり、家庭での会話に繋がるなら、頑張ろうと思ったし嫌なんかじゃなかった。今でも、そう思う。 あたしたちの仕事は引き出しをつくること、だと思ってやっていた。いつか、あんなことしたな、あんなことあったな、と思い出してくれたらうれしいな、って。 その子が、その子でいれるような時間と場所を一緒につくるために仕事をしていると思っていた。あなたはあなた。これは今は出来なかったり人に迷惑をかけるからだめだよ。でも、これはすごいじゃん。頑張ってるじゃん。って。 面倒を起こさないで大人しくしてる、かまわなくても大丈夫だよね、と思われがちな子にこそ、楽しいことを見つけられるようにしたかった。誰だって見て欲しい、かまってほしいから。 ものをつくるのが好きだからこそ、その楽しみを、できるようになるうれしさを、出来なかったことをなんとか形にする難しさやできたときの嬉しさを、評価のない本当の個性と彩りを一緒に味わい尽くすことにわくわくした。 失敗してもいいんだよ、もっかいいってみよー!という場所を一緒に守りたかった。 すっげー、おもしれー、なにそれ?これすきー!えー、こっちがいい、みつけた!できた!がんばれ!やめて、ありがとう、ゴメンね、もう一回…。 もちろんあたし自身ができた人間じゃないから感情的になって怒ることもあったし、反省ばかりしてたし、大人で仕事だからそういった観点での関わりもちゃんとある。それは一応プロなんだから、と意識して向き合っていたつもりだった。 でも、あたしの仕事で譲れない一線とは相手も自分も自分らしく過ごせるように、そのために頑張りたかったんだろうな。 考え、甘いのかな? ただ、子どもの収容所みたいに押し込めて、看守のように目を光らせて怒鳴る、そうなってしまった状況に脳みそも心も身体も拒否ってしまった。 で、自分をコントロール出来なくなってしまったその状況にパニックという名称をつけられたっていう理解を今はしようとしてるんだが、はたして合っているんだろうか? 支えてくれている人が言ってくれた。 「仕事は仕事。譲れない一線を守れなくなったら、それは辞めていいと思う。自分を守れるのは職場じゃなく自分だけだからね。」 つよくなりたい。 芯がある、しなやかな、折れないつよさが欲しい。 受け流して、乱れてもそのうち立ち直れるような。 若竹のような。 そう、思ってきた。 前の自分ができたことを出来るようになることが『治った』ではなく、今の自分で生きていく方法を見つけなくてはいけないらしい。 まだ、わからないけど。
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