はなびら 3

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 その日は女神側学園大学病院の大泉医師の診察を受ける日だった。翡翠の体調も、翡翠の中のゲートも安定していたけれど、週一回の診察は欠かせない。全ての検査は翡翠を最優先にしてもらえるけれど、うんざりするような数の検査を終えるのに、大体は丸一日かかる。しかし、それは自分自身の身体のことがなにも分からない翡翠にとっては、必要不可欠なことだったし、大泉医師に会えることは翡翠の精神の安定剤のようなものだった。 「随分と体力が戻ってきたようだ」  大きな診察用の机の前に座って、大泉医師は言った。視線は机上のパソコンに注がれている。  いつもの魔道診療科のいつもの診察室。全ての検査を終えて、結果を見ながら、最後に大泉医師の問診とカウンセリングを受けるのが、検査の日の定番だ。 「はい。もう、日常生活には全く問題ありません」  向かい合う形で座る翡翠が答える。 「ゲートも安定している」  検査のため今はゲートを隠すための『識覚阻害』の魔符を外しているから、大泉医師にも翡翠のゲートが『見えて』いるはずだ。もちろん、部屋の外にその情報が漏れないように配慮はされている。現在このフロアには翡翠と大泉医師のほかには虎鉄と佐藤と鈴木しかいない。 「最近は、魔道ハーブを育てていて。魔符作りも始めてみました。なるべく、魔光使うようにしてます」  翡翠の答えに、ゆったりと微笑んでから、大泉医師は頷いた。 「最初は魔光肥料にして目立つかと思ったんですけど……うち、魔光持ちしかいないから、意外と気付かれなくて。あ。もちろん、目立たないように魔符で隠してはあるんですけど。今度、出来上がったらハーブティにして持ってきますね」 「それはいい。楽しみにしているよ」  大泉医師との会話は基本的に翡翠が話して、大泉医師が聞き役に回る。翡翠にとってはやっと手に入れた幸せで得難い日常とはいえ、ありふれた話ばかりで、きっと、大泉医師には退屈な時間ではないかと思う。ただ、大泉医師はいつもそんなつまらない話をにこにこと笑いながら聞いてくれる。だから、まるで、小さな子供が今日あったことを父親に夢中で話すようについ饒舌になってしまう。 「あの……先生」  そんなふうに翡翠の話を聞いてくれる人は今まで誰もいなかったから、つい、甘えてしまうのだと思う。 「体調。……その。すごく良くなってきてるし、体力も戻って来てます。だから。せめて戦闘訓練だけでもはじめちゃダメですか?」  翡翠はあくまでスレイヤーに復帰したい。血反吐を吐く思いで目指した仕事だったし、その努力に翡翠だって誇りをもっている。そして、それが一番一青と一緒にいられる選択肢だからだ。 「……うむ」  しかし、大泉医師は今日初めて難しい顔をした。 「数値的に安定しているが……」  データをパソコンの画面で確認してから、大泉医師は翡翠の方に視線を寄越す。 「私は、君がスレイヤーに復帰することに反対はしない」  スレイヤーに復帰したいという意志を、翡翠は面談に来た魔法庁の職員にも伝えてある。もちろん、いい顔はされなかった。というよりも、遠回しな言い方だが、拒絶された。  しかし、大泉医師は、ゲートが元通り修復されて、安定性がある程度担保されれば復帰をしてもいいと報告書を提出してくれた。それは、翡翠の心情を慮ってくれたからだけではなく、多くの症例を見てきた彼の妥当な判断だと言える。だから、大泉医師が答えを渋るのは単に希少な人型ゲートが勝手な振る舞いをすることを懸念しているわけではないのだ。 「ただ……これは老婆心というやつかもしれんが……訓練とはいえ、攻撃を受けることが、今の安定を崩してしまうかもしれない。今はまだ、君のゲートにあまり刺激を与えたくはない」  彼は医師として、家族として、純粋に翡翠の身体を心配している。 「窮屈かもしれんが。もう少し辛抱してくれまいか? 私は医者だ。患者の身体の健康を守る義務がある」 「わかりました」  大泉医師のまっすぐな視線に淀みは一切ない。身体のことは大泉医師に任せると決めた。だから、翡翠は素直に頷いた。 「体力が落ちて、情けないくらいに身体が動かないから、少し……焦ってしまって。困らせてすみません」  子供のように我儘を言ってしまったと、少し恥ずかしくなって俯くと、その頭にぽん。と、大泉医師の手がのった。 「翡翠の気持ちは分かっているよ。この程度のことならいつでも困らせてくれて構わない。我慢しなくていい」  普通なら、成人した男の頭を撫でるなんてしない。ただ、翡翠が両親の愛に飢えていることを大泉は理解してくれている。だからこんなふうにわざと大袈裟に子ども扱いをしてくれるのだ。 「戦闘訓練のことは、身体の様子を見ながら決めていこう。君の自由を束縛するために許可を出さないような真似は絶対にしないことは約束する」  そのことについて、翡翠が大泉医師を疑うことはありえない。翡翠は彼の人格や医者としての矜持を信じていた。
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