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「ああ。ところで」
翡翠の頭から手を離して、大泉医師は話しを変えた。
「今日君が来ると話したら、これを渡すように和臣に頼まれたのだが……」
机の脇の椅子の上に置いてあった紙袋を差し出して、大泉医師が言った。袋に『宇治・泉屋』と言うロゴが入っている。
「仕事で京都へ行っていたんだが、土産だそうだ」
渡された袋の中を覗くと、そこには明らかに高級そうな包みの箱と、取っ手のない紙袋が入っていた。
「箱の方はお茶だ。あれのお気に入りでね。君なら味を分かってくれそうだと言っていた。それから、もう一つの包みは紙だよ。魔符作りを再開すると聞いて、お祝い代わりだそうだ」
「……え? 魔符作り再開するの、話したのうちの住人だけなんですけど……誰に聞いたんですか?」
顔をあげて大泉医師の顔を見ると、苦笑いを浮かべている。
「おそらくは、隼人君だろう。割と頻繁にSNSで連絡を取り合っているらしい。すまんな。守秘義務も何もあったもんじゃない」
申し訳なさそうに話す大泉医師に、和臣の笑顔を思い出して、翡翠は思わず吹き出した。
「いいです。知られて困ることじゃないし、隼人だって和臣さんだから話したんですよ。信頼してるんです……っていうか、家族だって、俺が思ってるの知ってるから」
翡翠の笑顔に大泉医師も笑顔になる。
「開けてみてもいいですか?」
訊ねると、大泉医師は片手を差し出して、どうぞ。と、合図をした。
袋を開けると、中には薄いピンク色の和紙が入っていた。材料がなにかまではわからないけれど、微妙に魔昏の匂いがする。
その色に、一瞬翡翠はどきり。と、した。
「……綺麗な色ですね」
「ああ。魔昏帯で生育した桜の木を染料に使っているらしい」
桜。という言葉にも、どきり。と、させられる。
「桜……花びら」
思わず呟いていた。
「いや、花ではなくて、枝を使っているのだそうだよ」
大泉医師の言葉に、翡翠は彼の顔を見てから、もう一度、袋の中身に視線を戻した。それから、ゆっくりとそれを袋の外に出す。
ひらり。
と、何かが舞い落ちた。
「え?」
それは、小さな花びらだった。
どくん。
と、今度は明確に心臓が跳ねる。
「ああ。それは……」
足元に落ちた花びらを手にとって、大泉医師が翡翠の方の差し出す。
「栞。だそうだよ。紙を買ったおまけにつけてくれるのだそうだ」
一瞬、躊躇ってからそれを受け取る。よく見ると、昨日見たものと比べて大きい。栞にするのだから、花びらの大きさでは小さすぎるのだろう。けれど、色合いや雰囲気が昨日の花びらによく似ている。
偶然だろうか。
翡翠は思う。
しかし、あの和臣が、このタイミングで渡してきたそれが、偶然だと思えない。彼は何もかもすべてを見透かしているのではないだろうか。そんな気がしてくる。
「どうかしたのかね?」
花びらを持ったまま固まっている翡翠に、大泉医師が心配そうに声をかけた。
「あ。いえ。お土産、ありがとうございます」
何とかそれだけ答えると、大泉医師は心配そうな顔をしながらも、それ以上詮索はしなかった。
「ああ。そうだ。伝言も預かっているよ。『もし、使い勝手が良くて気に入ったなら、横浜でも同じ紙が買える。住所は紙の入っている袋に印字されているから行ってみろ』だそうだ」
大泉医師の言葉に、袋を裏返すと、そこには横浜ドーム内の住所が書かれていた。ここから、そう遠くはない。と、いうよりも近い。病院前の大通りを南に歩いて1キロもない。十分に歩いていける範囲だ。
「紙屋なんですか?」
「いや、魔符を作るアトリエらしい。ただ、ネットで材料を販売していて、希望があればドーム内の店で現物を見せてくれるのだそうだ」
「魔符の……アトリエ?」
手元の住所と花びらの栞をじっと見つめる。微かな魔昏の残り香はあるけれど、不穏なものは何もない。
ただ、偶然というにはあまりに出来過ぎているタイミングに、首筋の毛がちりちり。と、逆立つような予感とすら呼べない小さな蟠りを感じる翡翠だった。
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