はなびら 3

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「病院どうだった?」  隣で歩きながら、一青が訊ねる。 「うん。問題ないって。安定してる」  翡翠は敢えて『何が』の部分を濁して答えた。街中で不用意に話していい話ではない。 「そうか。よかった」  翡翠が言葉を濁したことを一青が不審に思うこともない。一青だって理解しているからだ。   「ホントは俺も付き添いたかったけど……」  一青は週一の病院通いにできる限り同行してくれた。仕事を優先してくれと頼んだのは翡翠の方で、もちろん、一青が気にすることなど何もない。 「大丈夫。安定しているし、大泉先生がいるんだから、心配いらないよ」  反対に言えば、大泉医師がいるからこそ、一青は翡翠を一人病院に行かせることができるのだ。それくらい、大泉医師に対する一青の信頼は厚い。 「あそだ。これ。和臣さんからお土産もらったよ? 京都行ってきたって。お茶と魔符用の和紙」  袋の口を開いて見せると、一青は苦笑した。 「お茶はともかく……魔符の話どっから聞き込んだんだよ」  そうして、翡翠と同じ疑問を口にした。もちろん、話の出所がどこかなんて想像がついているのだろう。 「あの人。地獄耳だよな」  もつよ。と、翡翠の手から紙袋を取り上げて、一青は笑った。 「そんなこと言って、この会話だって、聞かれて……」  その言葉を言ったその時だった。くん。と、後ろ髪を引かれた。昨日よりはっきりと。 「翡翠?」  会話の途中で黙り込んだ翡翠に一青が怪訝そうな表情を浮かべる。 「あ。いや。何でもない。虎徹さんにプランターの水やり頼み忘れたの思い出した」  上手く表情を作れた自信はない。自分の表情筋の動かし方が、表情に現れないという特殊な状態で育った翡翠にはまだ、上手く自分をコントロールできていなかった。 「大丈夫。あの人ならちゃんと先読みしてくれるから」  誤魔化されてくれたのか、誤魔化されているふりをしてくれているのかわからないけれど、一青の態度は変わらなかった。 「うん。そういえば。中央公園歩くのはじめてなんだよね。図書館はこの間連れてってもらったけど」  口では何気ない話を話し始めたけれど、心は別のことを考える。  ちらり。と、視線を向けると、一青の背中に見える。桜の色をした花びら。昨日と同じものだ。  けれど、翡翠は、それを一青に言わなかった。かわりに前を向く。 「広いよ。博物館とか、美術館も近いし」  一青の背中から微かに感じる嫌な感覚。ずっと、髪を引っ張られているような気がする。しかも、それは、一青から引き離そうとしているように思えて、明確に不快だと感じた。 「今日は無理だけど、時間があるときまた来たいな」  だからだ。  翡翠はわざと甘えるように、一青の手を握った。それから、その肩に寄りかかる。 「そだな。一緒に来よう。ここ以外にも、色々な場所に行きたい」  公園に向かう道にはたくさんの人がいた。そんな場所で翡翠が甘えることなんてあまりない。らしくない行動だと、翡翠自身も分かっていた。 「ん。いつか。俺の育ったところにも、一青を連れて行きたいな」  そして、今、翡翠がしていることが、いけないことだと、翡翠自身も理解している。それでも、それを理解したうえで、そうせずにはいられなかった。 「翡翠。……いいな。それ。行ってみたい」  ただ、一青は、ぎゅ。と、翡翠の肩を抱いて、そう言った。顔を見ると、喜びの色が溢れているのが分かる。 「ヤバい。……キスしたい」  翡翠の耳元に唇を寄せて、一青が囁く。  翡翠の何気ない一言で、こんなに一青が喜んでくれる。その表情が、さらに翡翠を幸せにしてくれた。 「いいよ」  その顔があんまり幸せそうだったから、そう答えると、一青はすごく驚いた顔になった。 「あ。うそ。冗談」  その顔に慌てて否定する。今、自分がしている表情はわかる。翡翠は思う。絶対に真っ赤になっている。 「なんだ。残念」  本当に残念そうにため息をついた一青に、ちょっと悪いことをしたかなと思っていると、いきなり目の前に長い睫毛に縁どられた瞼が現れた。 「?」  一瞬後になって、ちゅ。啄むみたいな可愛いキスをされたのだと、気付く。 「一青……」 「ごちそうさまです」  翡翠の顔がさらに赤く染まる。そんな反応に悪戯っぽく一青が笑った。 「ちょ……。……こ(んなところで)……な(にしてんだよ)……」  パニックを起こして一青を突き飛ばすと、一青は楽しそうに笑いながら、振り回している翡翠の手から逃れる。 「ほら、早くしないと、暗くなってバラ見えなくなるぞ」  そういって、一青は一歩前に立って歩き始める。 「……一青」  その背を見つめる。そこにはもう、あの花びらはない。  それは、翡翠の手の中にあった。 「……わかった? もう、やめなよ」  一青に聞こえないように小さく小さく呟いて、翡翠はそれにふ。と、吐息を吹きかける。そうすると、その花びらはまるで、生きている蝶のようにひらひら。と、宙に舞い上がった。そして、そのまま風に逆らって飛んでいく。 「……次は……」 「翡翠」  振り返った一青に、翡翠は笑顔を浮かべた。 「うん。行こう」  一青の手を握って、歩き出す。  翡翠の手を離れた花びらは、遠く、彼らが歩いてきた方角へと帰っていった。
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