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気を取り直してじょうろで水を撒いていると、ふ。と、翡翠の感覚に触れてくるものがあった。昨日と同じ。あの澄んだ水が湧き上がるような感覚。振り向くと、遠く、離れた場所に一青の姿が確認できた。
「帰って来たのか?」
一青はほぼ毎日のスケジュールを翡翠や虎鉄や隼人と共有している。翡翠の有事にすぐに対処できるようにだ。だから、今日帰ってくる時間を翡翠も、虎鉄も把握していた。
一青が帰ってくるのが、そろそろだと、分かっていたのだ。と、いうよりも、おそらくは一青が帰ってきてくれて嬉しいという気持ちが、表情に出てしまっていたのだと思う。
「うん。ほら。あそこ」
翡翠が指さすと、その姿を確認した虎鉄は何も言わずに翡翠の手からじょうろを取り上げて、家の中に入ってしまった。
もちろん、気分を害したわけではない。無表情だし無口だけれど、虎鉄は隼人と同じように、翡翠と一青だけの時間をとても大切にしてくれる。それは、一青や翡翠がスレイヤーとして信頼に足るという意味もあるけれど、彼らなりの優しさだと思う。だからこそ、『アイギス』に協力を依頼して、本当によかったと思う翡翠だった。
「ただいま」
そんなことを考えているうちに、一青がもう目の前まで来ていた。
そして、昨日とは反対に一青の方からそう言ってくれる。
「おかえり」
答えると、一青が肩を抱いて髪にキスをしてくれる。往来だと思うと恥ずかしいけれど、一青は愛情の出し惜しみをしない人だと、この一か月で嫌と言うほどわかったから、抵抗はしない。今は恥ずかしいけれど、翡翠だって嬉しいからきっとすぐに慣れる。と、頬を染めながら思う。
「外でお出迎えしてくれるなんて、珍しいな」
外に出るのには、まだ、緊張する。遠くに出かけるのでなくてもそれは同じだ。だから、外出はいつだって必要最低限にしていた。
「……ん。リハビリ」
ただ、そんな現状を変えたいと、翡翠は思っていた。スレイヤーに復帰したいなら、外出が怖いなんて言っていられない。
「うん。そか」
一瞬、言葉を間違えたと、一青が思ったのだと、わかった。翡翠が過去を思い出すような言葉を彼はなるべく避けてくれている。何気ない一言で過去を思い出してしまう翡翠に彼は何度も謝罪したけれど、繰り返すうち、彼は謝罪の言葉を口にはしなくなった。面倒くさくなったわけでも、申し訳なく思わなくなったというわけでもない。ただ、謝ることが余計に翡翠が思いだしてしまった過去を近くに感じさせてしまうのだと分かってくれたからだ。
「まだ夕食には早いけど、シフォンケーキ焼いたから、お茶にする?」
だから、翡翠も何も言わない。感謝していても、言葉にはしない。そうすることが、いつか過去を過去にして、幸せな今を当たり前にしてくれるのだと、二人共信じていた。
「する」
答えてから、少しだけ甘えるように翡翠を柔らかく抱いて、一青は囁いた。それが、きっと彼なりの謝罪だ。
謝られるよりも、必要とされたり甘えられたりすることの方が翡翠の心を癒してくれるのを、一青は知っている。
「露地もののイチゴ貰ったから、ジャムも作ったよ? 一青。甘いもの好きだから、うんと甘いやつ」
すり。と、その胸にすり寄ると、一青の匂いがした。
水のエレメントの匂い。綺麗な湧き水。冷たいけれど、清らかな感触。
ふと。泣きたいくらいに愛おしくなる。
「翡翠がどこに行っても、どこにも行けなくても。そばにいる」
分かっているよ。と、言葉の代わりにその背に手を回して、ポンポン。と、あやすように叩くと、すり。と、髪に頬擦りが返ってきた。
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