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「じゃ、中入ろうか?」
しばらく、そうして抱き合ったあと、囁き返すと、一青が少し名残惜しそうに、翡翠の身体から離れる。
「この一鉢だけ、魔光あげてくから、先に入ってて?」
一青を先に玄関に入れてドアを閉めずに翡翠は言った。
「……わかった」
一瞬だけ間があった。
その理由を、翡翠は想像できるけれど、答えは知らない。ただ、どう思ったにせよ、一青は信じて、背を向けた。
その背に言葉に出さない感謝を告げる。
そして、手元に視線を落とす。
そこには、花びらの形の小さな紙片が乗っていた。さっき、一青の背に張り付いているのを見つけたのだ。昨日と同じように。
否。違う。
本当はこれがあるかどうかを確認するために一青が帰ってくる時間に合わせて外に出た。そして、半分以上、あるのだと思っていた。
「『もうやめて』って言ったよね?」
自分の声が、自分でも分かるくらいに冷え切っているのが分かる。まるで、真冬の北風のようだ。
左の掌にそれを乗せたまま、翡翠は胸の前にかかげた。そしてその上に右の掌を重ねる。指先がお互いの手首の方に向くように。
「風檻の壱」
そのままの形で両掌を10センチほど離すと、右と左の掌の間にガラスのように透明な四角い空気の蟠りが生じる。花弁はその中央に収まっていた。その六面の三面ずつを両の掌でなぞると、きん。と、鍵が閉じるような小さな小さな音。
「このやり方じゃ。無理。やめなよ?」
空気でできた檻の中の花びらに向かって翡翠は囁く。
「忠告じゃない。警告。覚えておいて。
……疾風の参」
箱の中に嵐が起こる。音もたてず風が花びらを切り裂くべく、その姿を刃に変える。その無数の刃が花びらに触れた瞬間だった。ぱちん。と、小さな音がして箱が弾ける。同時に、紙は粉々になって風に攫われた。
指先に小さな痛み。
見ると、そこには小さな切り傷が一筋ついて、そこから血が滴っていた。
「翡翠!」
その瞬間に一青が家の中から駆け出してくる。
「どうした? 今の」
いきなり肩を抱かれて、家の中に連れ込まれる。そのまま両肩を掴まれて、一青の青い瞳が顔を覗き込んできた。心配そうな表情。大切に思ってくれているのが分かって、申し訳ないと思いつつも幸せに思う。
「大丈夫。肥料用に魔光を込めた魔符が暴発しただけ。上手くできれば魔道植物の園芸用に売れるかなとか。期待してたんだけど、扱いが難しすぎ」
我ながら、苦しい言い訳だ。けれど、翡翠はまだ、自分がしていることの真意を知られたくなかった。
「指。怪我してる」
翡翠の下手な嘘のことは何も問わずに、一青はその手についた傷に視線を落とす。それから、その手を取って、翡翠の細い指先にハンカチを当てた。
「こんなのなんともないよ? 痛みには慣れてる」
こんなふうに大切に大切に扱ってもらうことなんてなかったから、少し後ろめたい。
全部、話してしまおうかな。と、思ってから、やっぱり、だめだ。と、翡翠は答えを出した。
「そんなものに、慣れなくていい」
ハンカチの上からそっと、翡翠の指先に一青が触れる。
「治癒の弍」
一青が小さく呟くと、指先が温水に包まれたような感覚があって、次第に痛みはなくなっていく。
「一青。いいって。一青の魔光。こんなことに使ったら、勿体ない」
手を引こうとすると、ぎゅ。と、その手首を一青が掴んだ。
「翡翠のこと以上に大切なことなんて、俺にはないよ。だから、この使い方で正しい」
どきり。と、するくらいに真剣な眼差し。反論なんて、思いつくはずもなかった。一青の言葉で、本当にそれが全部正しいような気持ちになる。
「何でも全部話してほしいなんて言わない。ただ、危険なことはしないでほしいし、必ず俺のところに帰ってほしい」
まっすぐに見つめられて、翡翠は頷いた。
「危険なことなんてしないよ」
一青の頬に手を伸ばす。
多少は窮屈でも、一青も、虎鉄も、隼人も、紅二だって翡翠がゲートであってもできる限り自由でいられるように守ってくれているのだ。それを、無駄にするような真似ができるはずもない。
ただ、それでも、譲れないものも翡翠にはあったし、そもそも、これが危険なことだと、翡翠は思っていなかった。
「それに。どこにも行ったりしない。俺はここにいるよ。一青が帰るのをいつも待ってる」
偽りなどどこにもないから、真っ直ぐに目を見て、翡翠は言った。その思いが伝わったのか、一青が頷く。
「今日のシフォンは上手く焼けたんだ。昨日、和臣さんからもらったお土産のお茶もあるし」
ぽん。と、一青の背中に手を置いてそう言うと、一青は頷いて階段を上がり始めた。後を追って翡翠も階段に足をかける。そこで、ふと。立ち止まって、翡翠は振り向いた。もちろん、扉には変化はない。
「そこから先は……」
誰にも聞こえないように呟いてから、顔を元に戻し、一青の背を見上げる。そして、翡翠は階段を上り始めた。
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