はなびら 5

1/3
前へ
/56ページ
次へ

はなびら 5

 翌日。  一青は休日の予定だった。  本来は。 「ごめんな。翡翠」  オフィスの応接室に入ってくるなり、一青は翡翠に頭を下げた。  浜北スレイヤーズオフィス。横浜ドームの中央エリア、女神川学園大学医学部のキャンパスや、大学病院。鏑木家のある街にほど近い中央地区にその事務所は位置していた。一青の所属しているスレイヤーズ事務所のオフィスだ。  「今日は全休の予定だったのに……」  朝、朝食を準備して起こしに行くと、ベッドの中に引きずり込まれて、少し寝ぼけた顔で、一青が『今日はデートしよ?』と、甘えた声で言った。もちろん、断る理由なんて一つもないから、朝食をとって紅二を送り出してから出かけたのだ。  それなのに、中央区の美術館に入る直前に一青に呼び出しがかかってしまった。強制的な招集ではなかったものの、最も近くにいた上に一番キャリアが浅い一青が呼び出しを無視することができるはずもなく、デートを中断する羽目になったのだった。 「いいよ。それがスレイヤーの仕事だろ?」  もちろん、翡翠だってそんなことに腹を立てたりはしない。言ってしまえば、翡翠が所属していた事務所の方がよほどブラックだった。給料は安い上に、休日深夜の呼びだしなんて日常茶飯事。月の出動日数も法律で決められた上限をオーバーすることが当たり前で、虚偽の申告をしているほどの典型的なブラック事務所だった。それに比べれば、北浜スレイヤーズオフィスはまさに純白の模範的事務所だと思う。 「出動はなくなったから、もう、帰っていいって……誤報だったらしい」  この付近で小規模ゲートが開く前兆の揺らぎが見つかったという通報で、対処のために召集されたらしいのだが、結局それは、誤報。と、いうよりも悪戯の類だったらしい。魔法庁の調査が入ったけれど、指定された場所にそのような現象を発見することができなかったし、通報者は偽名で、連絡先も特定できなかった。  その検証作業中、約7時間拘束。北浜スレイヤーズオフィスの応接室で翡翠はぼーっと本を読んだり、机の上のメモ帳に鉛筆で魔符の図案を描いたり、無為に時間を潰した。おかげで新しい魔符の短縮図案を一つ思いついたほどだ。  ともかくも、通報から8時間以上かけて、一件落着。と、言うわけだ。 「もう、時間あんまりないな……」  スレイヤーの仕事にとやかく言う気はないし、何もなかったのはよかったのだと思うけれど、ただの悪戯でデートの邪魔をされたのが面白くはないのは否定できない。隠しているつもりでもそんな翡翠の思いは表情に出てしまっていたかもしれない。一青は最初と同じように申し訳がなさげな表情で呟く。 「飯だけでも食って帰ろうか?」  ご機嫌をうかがうようにそんなことを言われて、翡翠の方が申し訳なくなってしまった。悪戯のことは一青が悪いわけじゃない。きっと、残念だと思っているのは一青も一緒だ。 「ホント。いいんだよ。それよりも、一緒に夕食の献立考えて。一緒に買い物して帰りたい」  気持ちを切り替えてそう言うと、一青は表情を明るくして、頷いた。 「……それに。一青の職場見れてよかった。一度見てみたかったんだ」  それは強がりではなくて、本心だった。いつか、スレイヤーとして復帰できるなら、一青と同じ事務所に所属して、一緒に仕事をしたいと思っている。だから、今日は職場見学させてもらったつもりになろう。そう思ったのだ。 「ありがとな。じゃあ、帰ろうか」  そ。っと、一青の手が背中に触れる。促されて立ち上がると、一青が荷物を持ってくれる。 「大丈夫。自分で持てるよ」  そんなふうに、ご機嫌を取ってくれなくても大丈夫だよ。  と、苦笑して、荷物を受け取ろうと、手を伸ばす。そうすると、その手を掴んで、一青が、ぐい。と、翡翠を引き寄せた。 「……あ」  そのまま、腕の中に閉じ込められる。 「一青……?」  ぎゅう。と、強く抱かれて、翡翠は苦しさに身を捩った。 「そんなふうに……聞き分けよくならないで?」  耳元に一青が囁く。甘い。甘い声。一瞬で鼓動が早くなって、翡翠はびくり。と、身を竦めた。 「でも。本当に……一青が悪くないの。わかってるし」  悪戯が一青の責任でないことくらいは分かっているし、今回は無駄足だったけれど、呼び出しが来たとき、スレイヤーであれば、駆け付けるのは当たり前だ。少なくとも、翡翠は、聞き分けよくなければいけないと自戒しているわけではない。スレイヤーを伴侶として持つものが、当たり前のこととして受け入れていることを翡翠も受け入れているだけだった。 「わかってる。……俺のほうが。翡翠といられる時間が少なくなるのが辛いだけ」  ちゅ。と、音がするような可愛いキスが髪の落ちてくる。優しい恋人の優しい言葉と扱いが嬉しくて、翡翠はもう、それだけで全部満たされてしまう。場所なんてどこでもいいし、何もしなくてもいい。翡翠はスレイヤーである一青を好きになった。だから、昨日、一青が言っていたのと同じ。ただ、こうして自分のところに帰ってくれれば翡翠はそれでいいと思う。 「大丈夫。約束しただろ? 俺はどこにも行かない。だから、時間は沢山あるよ」  一青の背に手を回して抱きしめる。
/56ページ

最初のコメントを投稿しよう!

19人が本棚に入れています
本棚に追加