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一青と出会ってからの数日間、二人はべったりと、四六時中一緒だった。それこそ、どこへ行くのも一緒だったし、不安がる翡翠を一青は離そうとはしなかった。しかし、翡翠に護衛がついて、一青が仕事に復帰してから数週間は、あまり二人きりの時間を取ることができなくなっていた。一青は泊まりの仕事はなかったから、一日一度は必ず顔を合わせることはできたけれど、出来立ての恋人同士には少し物足りない。と、一青が思ってもおかしくない。
「今日は一青の好きなもの作るよ。……紅二が寝たら、一緒にお風呂入ろう?」
いつもは一家の大黒柱として、一人前のスレイヤーとして、歳の割に落ち着いた一青が、時折見せてくれるようになった甘えが、堪らなく可愛く思えて、翡翠は精一杯明るく、優しい声で言う。そんなふうに甘えられるくらい自分の隣では安心してくれていると思うと嬉しい。
「翡翠の全部。俺が洗ってもいい?」
身体を離して、翡翠の顔を覗き込んで、一青が言った。伺うような表情に、鳩尾のあたりがぎゅ。と、締め付けられるみたいだ。つまりは、きゅん。と、している。
「いいよ。一青は俺が洗ってあげる」
そう答えると、一青は少年のような笑顔を浮かべた。
「じゃあ。帰ろうか。何が食べたい?」
翡翠が背伸びをして、ちゅ。と、頬にキスをすると、一青は少し思案気な顔をする。それから、翡翠の頬にキスを返してくれた。
「うん……翡翠が作るもんは大抵美味いけど……今日は肉食いたい」
一青の若者らしい答えにくすり。と、笑って、翡翠も少し思案する。
「じゃあ……サムギョプサルとかいいかな?」
翡翠の提案に一青の顔が明るくなった。どうやら、お気に召したようだ。
身体を離して、いこうか。と、促され、歩き出す。そして、部屋を出たところで、一青は立ち止まり、部屋の方を振り返って鍵を掛けた。
「あ。鍵返してくるから、ちょっと待ってて」
ちゃり。と、音をさせて、翡翠が待っていられるように借りてくれた応接室の鍵を振って見せて、一青が言う。翡翠が頷くのを待ってから、一青は背を向けた。
そこで、翡翠ははっとした。
その背に、ついていたのだ。あの、花びら。
「あ」
思わず声を出していた。無意識にそちらに手を伸ばす。
その瞬間、何か、酷く暗くて、重い何かがそこから溢れ出したような気がした。淡くピンク色だった花びらがどす黒く染まって、ドロドロと崩れる。そして、それは翡翠の指に絡みついた。
まずい。
と、思ったときには旋風が黒い何かに絡みつかれた翡翠の指先を中心に巻き起こっていた。一瞬後にはそれは球体の嵐になって指先を包み込む。びり。と、窓ガラスが鳴る。すぐにその球体は収縮し、翡翠の指先を離れた。球体は一瞬だけ膨張してから、一気に収束し、内側に向かって飲み込まれるように消える。
「え?」
翡翠の声に一青が振り返る。
けれど、そのときにはもう、何の痕跡も残ってはいなかった。
「翡翠……今の?」
問いかえす一青の声は、突然どこかから響いてきた大音響と、悲鳴にかき消された。
まるで、何かが爆発したような音。それから、大きなものが倒れたり、ぶつかったりするような音が続く。声は、女性。恐らくは若い女性の声だった。
建物全体が巨大なスピーカーの中に押し込まれたみたいに空気が振動している。その振動が床を壁を揺らして、音を立てて窓ガラスにひびが入った。
「!?」
すぐさまその音に反応して、一青が翡翠の腕を引いて、自らの腕の中に収める。
「風……の……?」
体系化された魔法と言うにはいささか粗削りで乱暴な『力』の塊が暴れまわったような感触が肌に伝わってくる。きっと、一青も同じものを感じているだろう。
同じくその音と感覚に反応したらしい数人がほかの部屋から飛び出してきた。
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