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「一青」
部屋から飛び出してきた人々の中の一人が声をかけてくる。明らかに日本人ではないほりの深い顔立ちに無精ひげを生やした30代くらいの男性。銀色に近い鉄紺の髪に青い瞳。背が高く、隙のない立ち振る舞いからかなりレベルの高いスレイヤーと思われた。
「DD。今のは……」
その人物の名は何度も一青の口から聞いたことがある。一青が学生時代に指導官をしていた北浜スレイヤーズオフィスの先輩スレイヤーだ。
「No clue.上の階……だな。魔術系のオフィスは……あの魔符師のねーちゃんのアトリエとやらだけか……」
ちら。と、上の階への階段を見てから、視線を一青に移す。そして、翡翠の存在に気付いたように、にや。と、笑顔を浮かべた。
「その子が例の子か? Just a minute.連れてきておいて、俺に紹介もしない気かよ」
意地悪く笑うDDに途端に嫌そうな顔になって、一青は追い払うようにしっし。と、手を振った。指導官相手にそんな態度を取って大丈夫なのかと心配になるけれど、二人の関係性はそれを許すらしい。
「あんたみたいなろくでなしに紹介できるかよ。翡翠の貞操が危うくなる」
「Huh? Kidding me? 人を強姦魔みたいに言うな。俺は可愛いコには等しく紳士だぞ?」
そう言って、一瞬で間合いを詰めたかと思うと、DDは、翡翠の手を取って、その手の甲に軽くキスをした。その後、翡翠の顔を見てにっこり。と、優しく笑う。けれど、その優しい笑顔の前に、一瞬だけ怪訝そうな表情を浮かべたのを翡翠は見逃さなかった。
「エロおやじ。翡翠に触るな」
しかし、すぐに一青に追い払われてしまう。
翡翠から引き離されたDDは翡翠の手を握っていた方の手をじっと見てから、少しだけ真面目な顔になった。
「Anyway 上を確認してくる」
ひらり。と、軽やかに手を振って、一青と翡翠を残して、階段に向かってDDが歩き出す。
「あ。待って」
その背中を思わず翡翠は呼び止めていた。
「What?」
翡翠の声にDDが振り向く。声は疑問形だったけれど、不審に思っているというよりも、まるで翡翠に呼び止められることを予想していたような表情だった。
「あの……俺も。行っていいですか?」
「翡翠」
翡翠の突然の申し出に、一青が待ったをかける。当たり前と言えば当たり前だろう。わざわざ危険かもしれないところに、翡翠を連れていくなんていう選択肢が一青にあるはずがない。
「……ごめん。一青。お願いだよ。あとで、ちゃんと説明するから」
翡翠の真剣な懇願に、一青は困ったように固まる。迷っているのが分かる。
たぶん、いつもなら、だめだ。と、言われていただろう。しかし、さっき、『聞き分けよくならないで』なんて言ってしまったことが、翡翠の我儘を簡単に断れなくしているのだと翡翠にも分かった。分かったうえでの懇願だ。ズルいとは思うけれど、放ってはおけない。放ってはおけない理由が翡翠にはあった。
「いや。でも」
「Well,well,well.俺の弟子は愛しいダーリンの可愛いおねだりも聞けない腰抜けなのか?」
それでも躊躇っている一青を揶揄うようにDDが言った。時折混じる母国語は彼の癖らしいが、発言の軽さを助長しているように聞こえる。だから余計に、無責任に聞こえる言葉に一青がDDをねめつけた。
「何があっても、お前が護ればいいだけだろうが。こんくらいの我儘聞いてやれなくて、愛想をつかされてもしらんぞ~」
何かを言い返そうと、一青は口を開く。けれど、その口から反論が出ることはなかった。
「危険だと思ったら、すぐに引き返すぞ? それから、絶対俺から離れないで?」
翡翠に向きなおって、両肩に手を置いて、一青が言う。真剣な顔だった。
「……ごめん。我儘」
なんだかすごく申し訳ないことをしている気がして、翡翠は俯いた。ただ、それでも、上を確認しないわけにはいかなかった。
「いいよ。聞き分けよくならないで。って、言ったろ?」
それも、思った通りの返答だったから、余計に責められているような気がして、翡翠はぎゅ。と、一青の手を握った。
「おい。行く気あるのか? イチャイチャするなら、終わってからにしろ」
軽口をたたいて、DDは二人を上階へと促す。ち。と、小さく舌打ちして、一青は翡翠の手を離した。
「後ろから来て?」
何かあったときには手を繋いでいては対処が遅れる。分かっているけれど、少し心細い。
いや。分かっている。
本当は、翡翠にはもう、全てわかっているのだ。わかっているから、我儘を言ってまで、一緒に行きたいと懇願した。
だから、心細いと感じるのは別の理由だ。
もしかしたら……。
そんな負の期待感を持って、翡翠はDDと、一青に続いて階段を上がった。
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