はなびら 6

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 彼女にはおそらく翡翠をどうにかできるような能力はない。それはわかっていた。だから、翡翠が恐れていたのは彼女ではないのだ。納得したわけではないと思う。それでも、二人は翡翠と彼女が話すのを止めはしなかった。 「これ。よくできてる」  手に持った花びらをエレメントの力でふわり。と、宙に浮かせて、弄びながら、翡翠は言う。昨日、一昨日、その前の日にも、一青の背中についていたものと殆ど同じものだ。そして、一青が昨日持ってきた印刷された魔符のオリジナルと思われる。 「廉価版は精度が高くないから、ここまでじゃないけど、手書きの方はすごいね。こんなに小さく精密に描くなんて。あなたは優秀な魔符師だ」  小さく、『疾風の壱』と、呟くと、それが粉々になって地面に落ちた。 「けど。使い方は良くないよ?」  そう言って、翡翠は一青に視線を移した。まだ、理解はできていないだろう。けれど、一青は真っすぐに翡翠を見ていたし、翡翠もその視線を受け止めて、真っ直ぐに見返す。 「いくら好きでも、こんなふうに他人を詮索するのはダメだ。そんな方法でしか近づこうとしない人を、誰も……一青も信じないよ」  翡翠の言葉に、状況を理解したのか、一青は宮坂と呼ばれた女性の顔を見た。  彼女が、一青とどう出会ったのか、その後何があったのか翡翠は知らない。けれど、彼女が一青をどう思っていたのか、思いをどこへぶつけたのかは知っていた。そして、一青がその思いについて全く知らなかったことは、一青の顔を見ればわかる。 「うるさい! うるさい!! あんたに何が分かるのよ」  ヒステリックに彼女が叫ぶ。さっきまでの愛らしい女性はどこへ行ってしまったのかと思うような形相だ。 「鏑木さんみたいなひとが。私なんかに振り向いてくれるわけないじゃない!! だから。だから……遠くから、見ていられるだけでよかったのに……。急に……毎日、毎日、あなたのことばかり……」  彼女は一青に思いを伝えはしなかったのだろう。遠くから見ていることを選んだ。 「だから、こんなもので、監視したっていうの?」  翡翠が呟くと、一斉に部屋の中のすべての花びらが粉々になって散らばる。  彼女の言葉からは、行為がエスカレートしたのは翡翠が一青と暮らすようになってからだとわかる。しかし、確実にその前から彼女は一青を監視していたのだ。それが、堪らなく不快だった。 「それで? 満足? 違うよね? 最初のは、ただの監視だった。次の日は、邪魔したよね? でも、昨日のは破壊されたら同じ力を返す呪いつきだっただっただろ?」  昨日。翡翠が警告を返した後、破壊した魔符には破壊されたら同じだけの力を破壊者に返す呪いが付与されていた。翡翠の結界が壊されたのも、翡翠の指先が傷ついたのも、翡翠自身の力によるものだ。 「一青の心覗き見て、悔しくなった? 今日のは、もっと酷かったよね? ただ、あれくらいじゃ。無理。俺。呪いには耐性があるから」  今日のものはさらに直接害をなす呪いが付与されていた。ただ、昨日のものとは違い、呪いをかけたのは彼女だったから、翡翠にとってそれを防ぐくらいは造作もないことだった。幼いころから命に係わるレベルの呪いに日常的に晒され続けた翡翠にとって、彼女の悪意など児戯に等しい。  ただ、咄嗟のことで無意識に呪いを返してしまったために、彼女の命まで奪ってしまったのではないかと、翡翠は恐れていたのだ。彼女の呪いをそのまま返したのではなく『上乗せ』までしてしまったのは、恋人である一青の内面まで覗き見されたことが酷く不快だったからだ。 「……ごめん。一青。俺。気付いてたのに。言わなかった」  はじめに一青にこのことを話さなかったのは、気付かれたと知って諦めてくれれば深追いはしないつもりだったからだ。一青がモテることくらいは知っている。こんなことはこれきりではないだろう。  彼女はきっと、最初はそれが悪いことだと分かっていたはずだし、こんなことが知られたら、魔符師としてのキャリアを失うことになる。少しばかりのぼせ上ってしまった恋の結末としてはきつ過ぎる罰になってしまうだろうと思ったのだ。 「一青のこと覗かれたの。二人でいるときに見られたのも……気持ち悪かったから。少しだけ。懲らしめてやろうとか……思って」  二日目に一青の背中にそれを確認したときには、本当は話そうと思った。でも、そうしなかったのは、単純に一青は自分のものだとマウントを取りたかったのだと思う。一青は自分のものだと見せつけてやりたかった。だから、仲の良い姿を見せつけたうえで魔符を返した。一青との仲を見せつけた上に、気付いて返すことができる術師がいると知れば、もしかしたら、今度こそ諦めるかもと思っていた。   「こんなひどいことになるとは思ってなくて……ごめん」  今日のことは完全に計算外だった。一青は事務所に来てからも何度も翡翠の顔を見に来ていたし、そのときには何もついてはいなかったのに、ほんの1時間ほどの間に花びらがつけられていたことに驚いて、思わず魔符の力を返してしまったから、力の加減もあったものではなかった。  正直な話をするならば、一青に内緒で、こんな子供じみた仕返しをする自分に気付かれたくなかったという思いもあったから、こんなことになって、もしかしたら人を傷つけてしまったのではないかと想像して、怖かった。だから、放っておけなかった。  咄嗟に人間だけでも守れたのは僥倖だった。
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