はなびら 1

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「ところで……今日はちゃんとほしいもの手に入ったの?」  翡翠が肩から下げたトートバッグを指さして、隼人が訊ねる。 「うん。大体は。あの画材屋さん。いいね」  ぽん。と、バックを叩いて翡翠は答える。 「何買ったの?」  遠慮なのか、配慮なのか、単に興味がないだけなのか、隼人は翡翠の買っているものを覗いたりはしなかった。だから、画材屋に入ったことは知っているけれど、何を買ったかまでは知らない。 「うん。魔符を作るための材料。紙とか。筆ペンとか」  久米木や黒蛇の思い通りに心を蹂躙されたままこの先ずっと生きていくなんてごめんだったし、翡翠も男である以上、恋人である一青にすべてを頼り切るのもプライドが許さない。かといってスレイヤーとして復帰するには、翡翠の中の傷ついたゲートはあまりにも危険だし、翡翠は精神的な傷からまだ回復しきれていない。  全てを考え併せて、体調が万全に近くなった翡翠は、大泉医師の勧めもあって、得意だった魔符を作る『魔符師』としての活動を開始することにしたのだった。そのための材料集めと、自分自身外へ出るためのリハビリとして、隼人と買い物に出た。 「魔道用のじゃなくてよかったの? それで、普通のやつでしょ?」  翡翠が行ったのはドームの中央エリアにある普通の画材店だ。女神川学園大学や高校の美術過程の生徒がよく利用している安価で質がいい画材屋を知己を得た隣人に紹介してもらったのだ。 「うん。これで十分」  魔符作りに使う紙やインクは普通、魔道具店で買うことが多い。もちろん、中央エリアには魔道具の店も存在している。 「紙は。いいヤツ使っても……無駄……いや。その。ほら。気の持ちよう。くらいにしか効果ないし。顔料は普通のヤツにいろいろ混ぜて自作するから」  魔符に使う紙は魔道植物や鉱物が梳き込まれたりした特別なものを使うこだわりがある魔符師が多い。けれど、翡翠はあまりそこにこだわりはない。  しかし、こだわりが強い分、やり方を否定されると怒る魔符師が多いことも、翡翠は知っていた。女神川学園が近いこの地区には魔導士や魔符師が多い。そんな会話を聞かれて、散々文句を言われた過去を持つ翡翠は、つい周りを気にして言葉を選んだのだ。 「……ああ。あれは気にしなくていいって」  その上。少し距離を置いた場所に佐藤と鈴木がいる。一般に流通している魔符用の紙やインクの販売は殆ど魔法庁の管轄だ。魔法庁職員の彼らの前で商売を邪魔するようなことを言うのは憚られる。と、翡翠が思っているのを見透かしたのか、ちら。と、佐藤と鈴木に視線をやってから、隼人はひらひら。と、手を振った。 「魔法庁の長官さんにも伝えてもらえばいいんだよ。魔道具高すぎ。って」  別にびっくりするほど魔道具が高いわけではない。魔法庁が魔道具の販売を管轄しているのは、製作者の出し渋りで価格が高騰するのを防いだり、反対に安売り合戦になって質が下がることを防ぐためだ。すくなくとも、成願寺長官が改革してからはその目的はしっかり守られている。 「安くし過ぎると、折角頑張って魔道具作ってる人が損するだろ?」  翡翠がそんなふうに答えると、隼人は。ふは。と、笑った。 「確かに。翡翠が作った魔符も安く買いたたかれたらたまったもんじゃないもんね?」 「そ。……てか、俺はギルドに直接卸すから、買いたたかれる心配はない……ってこともないか。和臣さんの方が買いたたきそうだ」  はじめて翡翠が鏑木家に来たとき、家にはられていた結界符のことを思い出す。  国内最高峰の魔符師。屋号を『一筆斎』と名乗る魔符師の作だ。普通であれば一生お目にかかれないほどの芸術作品を一般の民家の結界に使うなんて本来はありえない。和臣の紹介でなければ、おそらくは手には入らないだろう。  ということは、駆け出しの魔符師の魔符なんて買いたたかれても不思議はない。 「あー。あの人はね」  顔を見合わせて笑い合う。  こんな穏やかな日が来るとは思っていなかった。そして、その日々は夢に見ていたよりもずっと、きらきら。輝いていた。  友達がいて。信頼できる先達がそばにいてくれて。家族がいて。恋人がいて。  目標があって。仕事をさせてもらえて。正当に評価してもらえて。  優しくされて。守られて。理解してもらえて。  話ができて。笑いあえて。喧嘩をすることも。嫉妬をすることもあるけれど、好きだと言ってもらえる。  翡翠にとってはどれも、ずっと望んで手に入らなかったものだ。  それが今は、手を伸ばさなくても翡翠を包んでいる。  だから、失いたくはなかった。
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