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◇一青 再◇
手紙を読み終えても、一青はしばらくは何も言えなかった。ただ、書かれていることの意味が心に浸透してくるに任せていた。
久米木連という男を一青は直接は知らない。フロンティアラインの事件の最重要容疑者としての資料で数年前の顔写真を見たくらいだ。
性格は狡猾で残忍。執念深く、冷徹で、無感情。ヘビのような男だと聞いている。
もちろん、印象は最悪だ。目の前にいたなら、弁明も釈明も必要ない。この世界から消し去ってやりたいと思う。
翡翠は多くを語りたがらない。当たり前の事だと思う。それだけ目茶苦茶にされたのだ。彼自身も、彼の家族も、仲間も。
その相手が血の繋がった叔父だったと知って、ショックを受けないはずはない。その上、彼自身が最も恐れ、憎んでもいた呪いの一族の血に連なるものであったことの衝撃は想像に余りある。
「先生は父さんと母さんが何かから逃げていたって言ってた。久米木から……久米木の呪いの血からだったんだ」
呆然とした表情のまま翡翠は独り言のように言う。
「どうして? 母さんが逃げたから? 一族を裏切ったから? そんなことで?
そもそも、人を呪うようなヤツらが全部悪いんじゃないか! その気になれば母さんを連れ戻すことなんて、すぐにでもできたはずなのに……。幸せになるのを待ってたみたいに。それを壊すのがそんなに楽しいのかよ!」
だん。と、翡翠の手がテーブルを叩く。その衝撃で、テーブルの上のカップが跳ねて、中のココアが飛び散った。
「きっと……あいつは今も待ってる。俺が幸せになるのを。俺が心から幸せだと思ったときに来るんだ。それで……」
つ。と、翡翠の頰を涙が伝う。
「一青まで奪っていくつもりなんだ」
一青に縋ることすらせずに翡翠の呟きは空気に溶けた。
「翡翠」
そのまま、翡翠までも空気に溶けて消えてしまいそうに思えて、それが堪らなく怖くなって、一青は翡翠を抱きしめた。
「翡翠」
確かな体温を感じる。細いけれど、その身体がそこに在るのだと、感触が腕に伝わってくる。不思議なくらいに甘い髪の香り。小さく漏らす嗚咽も、そこに彼が確かに存在するのだと感じさせてくれる。
「約束しただろ? 奪われることなんてない」
ぎゅう。と、強く抱きしめると、細い指が一青の腕を握り締める。濡れた頬が胸にすり寄るのがいじらしい。守ってやりたいと心から思う。
「離れるなら、その先は要らない。誰かに間違っていると言われても、それが二人で決めた約束だ」
精一杯に思い込めて一青は囁いた。頼りなげな翠の瞳が瞬いて、一青を見上げる。それから、小さく頷く。
「でも、約束が現実にならないようにできることはしよう?」
素直に頷く翡翠の濡れた瞼にキスを送る。愛おしいと思いを込めて。
何度も何度もそうしていると、少し擽ったそうに、翡翠が首を竦める。それから、顔をあげて弱弱しく微笑んだ。
「こら。無理して笑うなよ。泣きたいなら泣いてもいいんだ」
正直な話をするなら、泣き顔は見たくない。けれど、無理をした笑顔はもっと見ていたくない。涙はいくらでも受け止める。取り乱したっていい。八つ当たりをされても構わない。泣くだけ泣いたら本当の笑顔を見せてくれるなら、一青はそれだけで報われるのだ。
「……面倒くさく……ない? 嫌いになったりしない?」
翡翠が不安げな顔で見上げてくる。
「伯父さんの家。柳大路って言ってた。一青の実家と同じ。ゲートキーパーの名家だ。母さんが久米木だったように。俺だって久米木の血が流れてる。成願寺さんは……俺のこと」
「翡翠」
思わず一青は声を荒げていた。その声にびくり。と、翡翠の肩が竦んだ。そんなふうに翡翠の前でキツイ態度を取りたくはなかったけれど、父親の話を出されると、一青はつい、反発を覚えてしまう。
「親父は関係ないって言っただろ? 大体、あの親父が翡翠の出生を知らないはずがない。知っていて柳大路さんに連絡を取ったんだ。反対しているはずがないだろう。ほかのヤツがなんて言ったって、俺には翡翠だけだ。翡翠に久米木の血が流れているからってなんなんだよ? 翡翠は翡翠だろ? だから、俺のことも親父と一緒にしないで?」
一青の言葉に、翡翠はまた、泣きそうな顔になった。
言い過ぎたと後悔。
取り繕うこともできないまま、翡翠の頬をまた、涙が零れ落ちる。
「あー。悪い。違う。怒ってるんじゃなくて。きつい言い方して、本当にごめん」
ほかのヤツらに翡翠が泣かされているのは腹が立つけれど、受け止める心構えはある。けれど、自分の言葉で翡翠を泣かせてしまうのは辛い。そんな涙は見たくない。
「……そうじゃな……」
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