はなびら 2

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 ゆっくりと歩きながら、翡翠は隣に歩く一青の顔を見上げた。何度見ても、ため息が出るくらいに綺麗な横顔だ。よく、美人は三日で飽きるなんていうけれど、全く見飽きない。 「ん?」  翡翠が見ていることに気付いて、一青の視線が下りて来る。それから、何が嬉しかったのかわからないけれど、すごく嬉しそうに微笑む。  不意打ちのこんな無防備な表情は、どんな言葉より雄弁に一青の気持ちを教えてくれる。  一青と暮らすようになって一月。それは、訪れた幸運が幻ではないと確かめるような一か月だった。  夜寝ていると、悪夢にうなされる。その度に泣いて取り乱す翡翠を、一青は優しく宥めてくれた。  失敗するたびに殴られた記憶のせいで、ほんの小さなミスで強張る身体を、『大丈夫』と、何度でも背を撫でてくれた。  全く価値がないと信じ込まされた人格も容姿も、些細なことで褒めて、肯定してくれた。  暴力も、罵声も、届かない場所に隠して守ってくれた。  ずっと、『誰か』に言ってほしかった言葉を、一番言ってほしいと心から願った『一青』が何度も何度も繰り返してくれた。  好きだよ。と。  だから、こんな瞬間が翡翠はすごく好きだった。その好きな瞬間が積み重なって、少しずつではあるけれど、心についた傷が癒されていくのを感じる。この幸運が幻ではないのだと、一青のそばにいてもいいのだと、毎日少しずつ信じられるようになっていると、翡翠は感じていた。 「何でもない。何食べに行こうか」  繋いだ一青の腕に寄り添うように、翡翠は言った。  自分でも自分の声が弾んでいることが分かる。そして、翡翠が浮かれていることが、一青を喜ばせているのだということも分かった。 「……そうだな。ん。もう少し、歩きながら考えよう?」  こんな小さな。けれど、幸せな時間が続けばいいと願っていた翡翠の心が通じたみたいに、一青が答える。嬉しくなって頷くと、一青はまた優しく微笑んだ。 「中央西の方にいろいろあるから……」  飲食店の多いエリアの方を指さしながら、一青が言う。歩いていく方向なんて、一青と一緒に歩くならどちらでもいいのだけれど、その大きくて綺麗な指に見惚れていると、ふ。と、後ろから引っ張られるような感覚に、翡翠は振り返った。 「ん?」  不意に振り返った翡翠に一青がどうしたのかと問いかけるような表情になる。  それが、何なのか、翡翠も答えられない。ただ、微かに髪に何かが触れて、引っ張られたような感触だった。髪を引っ張られたと言っても痛いわけではない。  りりりり。  答えに困って、考え込んでいると、一青のスマートフォンがなった。 「あ。悪い」  立ち止まって、ディスプレイを確認してから、一青は、翡翠に断って電話に出る。手が離れる瞬間が少し寂しかったけれど、もちろん、そんなことは口にはしない。 「あ。はい。俺です」  電話は仕事関係らしかった。  電話をしている一青を横目に辺りを見回す。少し離れた場所に佐藤と鈴木が見える。周りにはたくさん人がいるけれど、魔光を持った者特有の『気配』のようなものの肌触りを感じることはない。  ただ、電話をするイケメンに注意を向けているものは少なくない。歩いていく二人組の女性がひそひそ。と、話すのが聞こえる。一青がカッコいいとか、モデルみたいとか、スレイヤーかなとか、そんなこと。一青と歩くと、よく目にする光景だから、通常通りの反応だ。気にはなるけれど警戒するようなことではない。  それから、翡翠に注がれる視線。呪いがとけてから、こんなふうに見られることが多くなった。一般人と殆ど変わらない黒髪とは違う。その名前と同じ鮮やかな翡翠の色の髪と瞳が人目を引くのだろうと翡翠は思う。彼は気付いていない。10人中10人が実年齢を当てるのが困難なほど若く見える童顔の大きな瞳の少年のような翡翠は、おそらく、瞳の色や髪の色がなに色であろうと目立つのだということ。そして、彼に注目する人の殆どはその『かわいい』と、評されるのがもっとも似合う彼の容貌に注目の視線を注いでいるのだということに。  ともかくも、ぐるり。と、見回しても、警戒に足るものは見つけられなかった。  だから、翡翠はまだ電話をしている一青に視線を戻した。 「ん?」
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