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「ありがとうございました」
カランと出入口のベルが音を鳴らし、扉が閉まる。
今日最後のお客様が帰り、私はそれを見送ったところだ。
すかさず閉店中の札をドアにかけ、本日の営業はこれにて終了。
なんとか、カフェスタッフとしての初出勤日を乗り越えた。
時刻はちょうど夜の八時になっていた。
「おつかれさま。よくできてたじゃないか、初日なのに」
カウンターからかけられた声は、重厚な木製のインテリアで統一された室内に優しく響く。
振り返ると、声音の印象どおりの柔らかな微笑が目に飛び込んでくる。このお店のもう一人のスタッフ、というかマスターその人だ。
緩く癖のある黒い髪の毛は、短めに整えられている。パリッとシワのないシャツにスラックスというシンプルな姿は完成されていて、すらりと均整の取れた細身には、私とお揃いのエプロン。私の百倍くらい似合っている。
でも彼の何より特筆すべき点は顔の造作だろう。美貌、と言って過言ではないくらいのイケメンなのだから。
「閉店作業前に、コーヒー淹れようか。ブラックが良い? カフェオレ?」
「ありがとうございます。カフェオレでお願いします」
ややたれ目がちな目は、笑みの形に細められるとさらに優しい印象が増す。
指の長いきれいな手がコーヒーを淹れる仕草は、絵になる美しさだと思う。
そう、彼はこのお店の雰囲気と似ている気がする。シックで落ち着いた色気があり、でもどこか影が感じられるような。
スケッチしたいという気持ちと、私ごときの筆では再現性がないという気持ちで行ったりきたりしてしまう。
ただ、一緒に働くとなれば、そのハンサムさにデレデレしているわけにはいかない。
やっとまばゆさに慣れてきた、と思う、たぶん。
カップにたっぷりのカフェオレを受け取って、私は大きく息を吐く。
「はー、緊張しました……。初日のご指導ありがとうございます。大きいミスとかなくて良かったです」
「真面目な仕事ぶりで、とても良かったよ。君は覚えも早いし」
そう言ってくれたこの店のマスターこと、織原理市さん。
私より十歳は歳上だからというのはあるものの、とても落ち着いている。大人の余裕というものを感じられる人だ。私が彼と同い年になったとしても、同じようになっているとは到底思えない……。
理市さんは自分の分のコーヒーを口に運びながら、私に尋ねてくる。
「どうだ、馴染めそうか? ライムライトの仕事と、新しい生活」
「正直まだ落ち着かない気持ちでいっぱいなんですけど、たぶんやっていけるかなって思います。ちょっとバタバタですけど、かえってそのくらいの方が」
「何よりだ」
私の正直な感想を聞いて、理市さんは微笑んでくれた。
おかげさまで、と私は頭を下げる。
「不自由があったら言ってくれ。くれぐれも遠慮なくな」
「不自由なんて! でも、わかりました。もし何かあったら、その時は甘えさせてもらいます」
「ああ。その方がお互いのためにもなると思っておいて」
ありがたい気づかいだ。
実は理市さんは、ただの仕事の上司というだけの人ではない。私にこのカフェでの仕事を紹介してくれて、住む場所まで用意してくれた大恩人なのだ。
……本当はそれだけの関係でもないのだけど。
そのことにはまた後で触れるとして。
とにかく今の私は、この人に感謝してもし切れない生活を送っている。
私が初めて経験する業種なのに気をつかってと言うのを抜きにしても、仕事の指導は優しくて丁寧だし、ありがたいことばかりなのだ。
本当に頭が上がらない。
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