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その美しく艶やかな姿に魅入られたのは初めて口にした時だった。 黒子のような小さな種を抱擁する熟れた赤い果実は私の口の中で程よくとろけ、甘味は私の神経を刺激した。 それ以降、私はその果実になりたいと思い始めた。 私がその果実になる為には、果実の成長過程を知る必要があった。その途中で食べた後にその種を植えても育たない事を知った。 一旦、種を乾燥させ保存し春に蒔いた時、その果実は成長する姿を私に見せてくれた。 実った果実は私が知っている果実よりは随分と小ぶりで甘さも控えめだった。こんなのじゃない。 私がなりたいのはもっと大きくて甘いものだ。 けれど、育てた事で果実の成長過程を知れたのは良かった事だった。 それから数年間、私はその果実がスーパーの店頭に並び始める頃から無くなるまで、ほぼ毎日その果実を食べては種を収集した。 新聞紙の上に1つ、2つと丁寧に並べて置く。その一面に縦列に並んだ種を見ると、嫌な事も忘れられた。 乾燥するまで数日置いてから瓶の中に保存した。 およそ400個の乾燥させた種が集まると私はそれを1つ1つ飲み下して行った。 浅はかな知恵のせいか。単なる無知か。その両方を兼ね備えていた私は人体の持つ便という仕組みを完全に忘れてしまっていた。頭から抜け落ちていた。 数年間集めた種は無常にもトイレの中に吸い込まれて行く羽目となった。 その失敗のお陰か、私は益々、その果実になりたい欲求に駆られる事となった。 最初からやり直しではあったが、その試練を乗り越えた先には、きっと私が望むものがある。 私はそう信じて疑わなかった。 倍の年数をかけ、乾燥させた種を集め続けた。 2度と失敗はしない。その失敗とは土が、所謂、種を蒔く土壌がいるという事を私は忘れていたのだった。 なら私自身を土壌にすればいい。それだけの話だった。 19歳を迎えた春。7000個以上の乾燥させた種が入った瓶を前にして、私はついにこの時が来たと思った。 その中の1つを選び種を数個取り出した。 蒔く為に必要な物も抜かりなく準備出来ている。 果実の種。カッターナイフ。そして培養土となる私自身。乾燥させ過ぎるといけないので、保湿シートも用意した。そしてミネラルウォーター。 完璧だった。私はカッターナイフの刃を押し出し、左腕に刃を押し当てゆっくりと引いた。 玉のような血が傷口、いや、私という培養土から流れ出す。 止まるまで待ってから傷口に果実の種を植えた。押し込んだと言った方が正しいかも知れない。その時、痛みを伴ったが、これも産みの苦しみだ。辛いなどと微塵も思わなかった。 芽が育ち切った時、蔓が絡まぬよう、間隔を開けて再び培養土となる腕に切り口をつけ種を植えた。 太腿や下腹部に数カ所、同じ工程で種を蒔いて行った。 これで夏には立派な実がなり、私自身がその果実となる事が出来る。勿論、油断は禁物だ。 途中で、枯れたりしないよう切り裂いた傷口に水を与える事を忘れてはならない。私は大小様々な傷口を持った培養土という私自身を眺め微笑んだ。 私はダブルベッドの上で裸のまま大の字に寝ている。 部屋中に張り巡らされたネットには、私という培養土からすくすくと成長した果実の蔓が蔓延っていた。 その半分には、既に黄色い花が開花していた。両の乳首から伸びた蔓は栄養が行き届き過ぎているのか、他の蔓よりは幾分太いようだ。 天井の四隅には光量の強いライトが数多く吊るされ私や果実の蔓や花を照らしていた。 収穫までもうすぐだ。私は、今年1番最後に蒔いた中の1つ目の種が植えてある舌を出し、下目使いで芽吹いた双葉を眺めた。 こんな幸せな事は他にはなかった。 初めてこの果実を口にした幼少時から思い描き続けた事を、ついに成し遂げる事が出来たのだ。 ダブルベッドのお尻の部分に開いた穴から少量の便が出る。 私は舌を出しながら、彼の名前を呼んだ。 しばらくするとトレーニングウェアを着た彼が部屋に入って来た。 「見てほしいの」 私が舌を出したまま喋るせいで、彼は最初、私の言葉は聴き取りにくかったようだった。だがそれも今は慣れたものだ。 「どこを見ればいい?」 彼はベッドの下を覗き込みバケツに溜まった私の便を確認する。私の為によくしてくれているから言わないが、最近、彼は便を受けるバケツを滅多に片付けてくれなかった。 お陰で、部屋中に異臭がこびりついているように感じている。 立ち上がった彼の手にバケツは握られていない。 まだ溜まり切っていないという事だった。 培養土である私が果実に与える為の栄養素は、流動食で賄っている。それも全て彼が用意し食べさせてくれた。 全身くまなく種を撒けたのも彼が私の皮膚を、好きな道具で、好きなように切り裂き、切り口が塞がらないよう、手を尽くしてくれたからだった。 「ああ。うん。そうだよね。ごめん。直ぐに気づけなくて。今の君の状態では1番最後に蒔いたもう1つの所を見る事は出来ないもんね」 「うん。そこだけは今の私には見る事が出来ないから」 彼はダブルベッドを迂回した。広げた足下の方に立ち、屈んだ。顔を近づけ指でその部分に触れる。 「乾燥してる」 思った通りだった。 「ならお願いしていいかしら」 彼は何も言わず、その部分に指を押し込む。 ゆっくりと動かし始めた。 「芽は出てるかしら?」 「うん。まだとても小さいけれど」 「ありがとう」 私がいうと彼はその部分に指を押し込んだまま、顔を押し付けた。舌を這わしながら 「今年の果実も、きっと甘い実がなるよ」 私は私という腐葉土全体へ潤いが広がり始めていくのを感じた。 夏になる頃には沢山の果実が収穫出来る。その果実は、真っ先に彼に振る舞うのだ。 きっと彼もその甘さに満足し、私に優しく微笑むに違いない。そして私の頭を撫でながら口の中から果実の種を取り出すのだ。 1つ、2つ、3つと彼は私と果実の命を繋ぐ為に、種を皿に取り分けてくれるだろう。 彼の動きが止まる。沢山の伸びた蔓を折ったり傷つけたりしないよう、彼は私からから離れて行った。 彼の判断は間違いない。私の潤いは充分なようだ。 「ありがとう」 「2人の為だから気にしないで」 彼はいい私の部屋から出て行った。 私はその姿を目線だけで追った。 静かにドアが閉められる。 足音が遠ざかって行く。 彼の容姿を記憶に刻みつける。 来年の春にはこの目で彼を見る事は出来なくなると思われるから。 片目なのか。両目なのか。決めるのは彼で、 種を蒔くのも、今では彼の役目だった。 私は彼が私の瞼を押し開き、僅かに微笑みを称えながら 「心配はいらないよ」 と種蒔きの時に必ず口にする言葉を思い浮かべた。 そうして彼はカッターナイフの刃の先を私の眼球に押し付けるだろう。 真横か。縦か。それとも十字に切ってくれるのか。 私はその時が来る来春に想いを馳せ、 静かに目を閉じた。
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