初夏

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初夏

3ヶ月前、初夏。 いつも通り大学の授業を受け終えて帰路に着く途中にアメと出会った。僕の住んでいるアパートの階段前で大の字で寝ていたのが彼女だった。 僕の部屋は2階。流石に女性を跨いで階段を登ることに躊躇いを感じた僕は、彼女に声を掛けた。 「あの、危ないですよ。家に帰らないと」 「んぁ、え?ここ、うちだから。うち。危なくなんてないんだよぉ。でもね、水欲しい。水」 アメは酷く酔っ払っていた。 動く気配はまるでない。ただアパートの2階を指差して「うちはあっち。大丈夫、もう着くからさ。水だけ頂戴」とだけ言ってまた目を瞑った。 面倒なことに巻き込まれたくない僕は、彼女を端によけようとアメの肩に触れる。肩は何故か酷く濡れていた。 「…んて」 「はい?」 「こんなクソみたいな世界、生きてても意味ないよねぇ」 きついアルコールの匂いを感じながらアメの顔を見た。綺麗な茶色の瞳と目が合う。火照った頬には、複数の涙の跡が残っていた。 「アタシもうさ、来年で109歳なの。でも見てよ。見た目はずぅっと若いまんま。これって生きてるって言うのかなぁ。お酒飲み続けたって、肝臓悪くならないの。ねぇ、どうしたら生きることから解放されるんだろうねぇ」 まだ蝉は鳴いていない。梅雨すらも来ていない。それでも彼女の火照った頬が、ここに夏を連れてきたようだった。 僕はトートバッグから水筒を取り出して蓋を開け、アメに差し出した。彼女はハッキリとしない意識のなかその水筒を見つめている。 「水あげるんで、僕と非国民になりませんか」 「やだねぇ。捕まりたくないよ」 「捕まる前に死にますよ」 「はは、先に寿命が尽きるって話ねぇ」 僕がこの国にずっと感じていた違和感。 「生きる」ことが正義だと伝える学校、「生き続けている」ことが当たり前と思わせる世間、「生きなきゃいけない」と告げるテレビ番組。 生きていることを初めて実感するのは、死を悟った瞬間であると昔の有名な科学者が言っていたらしい。だとしたら今の僕らはもはや、生きてすらないのかもしれない。 横たわっていた彼女がゆっくりと身を起こすと、僕の持っていた水筒を乱雑に奪い取った。 水で潤った彼女の口が開く。 「助かったぁ、ありがとう。君のことは今日からミズって呼ばせてもらうからねぇ。よろしく、ミズ」 「僕にはちゃんと名前があるんですが、」 「いいのいいの。共犯者ってねぇ、素性を明かさない方が楽だよ。アタシはそうだなぁ…じゃあ、アメって名前にする。雨女だから、アメ」 この日僕は、アメという女性と共に【非国民】となる決意を胸に、ミズという名前を手に入れた。
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