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「……美心?」
こんなタイミングで名前なんか、呼ばないで欲しかった。聞こえなかったがその女の人に何か言った後、こっちに向かってきた。
「あのさ」
何を言われるのか怖くて、泣きそうな気持ちを押し殺すように食い気味で勢いよく話し始める。
「こんな公然の場で、あんな……き、キス……とか?最悪!超絶破廉恥!」
「いやあれは」
ばつが悪そうにする久郷を見て、余計苦しくなる。
「そ、そもそもあの人、彼女じゃないだろ!兄貴が彼女いないって言ってたし!不誠実反対!セクハラ!」
「そういうのじゃねぇよ。その様子じゃ俺以外としてないんだろうな」
「なっ。自惚れるな!他の人と何回もしたし!適当なこと言うな!」
分かりやすく煽られて悔しいのか動揺しているのかよく分からないが、咄嗟に嘘をついてしまった。
「他の人と何回もしてんならお前も不誠実だろ」
「あ。俺は、えっと、ちゃんと許可を得て」
「許可?勝手にあっちからしてきたんだよ。ほんと話聞こうとしねぇよな」
あ、れ……なんか久郷、怒ってる……?
「く、久郷こそ!ちゃんと最後まで話……」
話している途中で、急にグイッと顎を掴まれる。
いきなりの出来事だった。
唇に柔らかい感触と、久郷の深い色の目に写った自分が見えた。良い雰囲気でもなく、目を瞑るでもなく、ただ呆然と立ち尽くしていた。
「黙ってろよ」
そう言われるのと同時に実感が湧き、まだ唇に残る柔らかい感触に頭がクラクラした。
突然、キスされた。
意味が分からない。
なにをどうすればキスをする流れになるのか検討もつかない。時間が経つにつれ、じわじわと全身が熱くなってきた。真っ赤に染まっているだろう顔を見られたくなくて、思いっきり下を向いてから言い放つ。
「……な……なっ。なに、すんだよっ……」
強い口調で言ったつもりだったはずのその言葉は、自分でも驚くほどか細く、情けない声だった。
「あ?何?聞こえねぇよ」
どうしてこんな時に雑に聞き流してくれない。
こんな情けない顔を見せられない。久郷のことが好きだって顔に出てしまっている気がするから。
「さっきまでの威勢の良さどこ行ったんだよ」
「……うるせぇ。こっちくるな」
「文句あるなら目見て話せ」
徐々に近づいてくるのが、足音から分かる。
「おいなんか喋れ。キレて……」
腕を掴まれたことに驚いてうっかり顔を上げてしまった。久郷は珍しく拍子抜けした表情をしていたがそれどころでは無い。こんな顔ずっと見られているわけにはいかない。それにさっき重ねた唇を意識してしまって、久郷の顔をまともに見られない。
「は、離せっ……!」
手を振りほどいて全力疾走で逃げる。
シチュエーションは最悪だけど、多分キスされて嬉しかった。だけど、今のキスに好きの気持ちが一ミリもないことは悲しかった。
久郷の家に行った時、俺との思い出をちゃんと覚えていてくれて嬉しくなってしまった結果、してはいけない淡い期待が生まれてしまった。
触れられる度に意識して、俺のことをもっと見てほしいとか、優しくされたいとか、ずっと一緒にいたいとか思うようになっているのが、一方通行な思いだと分かっているからこそ、あんな雑なことされてものすごく苦しい。
そして、訳も分からずただ必死に走っている途中ふと気がついた。あの夏に、たけるくんと何度か一緒に来た公園の前まで来ていた。なぜか自然と足がそこに向かっていた。
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