63人が本棚に入れています
本棚に追加
26.会いたかった
先輩のマンションのドアの前に立ち、大きく息を吸い込む。
駅から走り続けたせいで全身に酸素が足りない。
肩を上下させ、なんとか呼吸を整える。前髪は汗で顔に張り付き、酷使された足が限界を訴えガクガク震えている。
何度も訪れた場所なのに、まるで崖にでも立っているような気分だ。
あと数本で終電も行ってしまう。モタモタしてると、すぐには帰れなくなる。
決意が鈍らないように拳に力を入れ、深呼吸を繰り返したあと、インターホンのボタンを押した。
しばらくしても返答はなく、もう一度ボタンに指を伸ばした時、ガタガタと物音が聞こえた。
「──佐伯さん!! 会いに来てくれたの?」
目元の赤い、今にも泣きそうな顔をした先輩がドアを開けた。
「……はい」
「どうぞ入って」
居間に通され、座るように促される。
「すごい汗だね……もしかして走って来た? 良かったらシャワー……いや、ごめん。そういうのじゃなくて…… 」
額を掻き、先輩は苦笑いをした。
「……話せて良かった。──昨日は本当にごめん。……君に触れないって約束したのに……キスは嫌って言ってたのに……また僕、調子にのって君の嫌がることしたよね……」
「そうじゃないんです! ……私、全然嫌じゃなくって……そうじゃなく、ごめんなさい! 私……わたし……」
伝えたいことはたくさんあるのに、溢れた気持ちが涙に変わって言葉にならない。
「…………頭……撫でてもいい?」
頷くと、優しい手がそっと私の頭にふれる。
「……大丈夫。僕は君を傷つけないよ。話したくないことは何も言わなくてもいいから……。ね? 大丈夫……大丈夫だから」
お母さんのこと、気持ち悪い男のこと、学校や会社のこと……今まで蓋をしていた悲しかった気持ちが一気に押し寄せてくる。
見栄も外聞も気にしない、子どものような鳴き声が自分の口から発せられている。
自分にもこんな音を出せるなんて知らなかった。
私が泣き続ける間、先輩は私の隣でずっと頭を撫で続けてくれた。
どれだけ泣いただろう、少し冷静になると、ここへ来るまでの汗が肌にまとわりついて気持ち悪い上、声は枯れ、涙で顔がグチャグチャなことが恥ずかしくなった。
追い打ちをかけるように、昼から何も食べてないお腹が大きく鳴り、先輩が声を出して笑った。
「泣くのって疲れるよね。ほら、簡単な物でも作るから顔洗っておいで。汗が気になるならシャワーを使ってもいいし。先に言っておくけど、今日は何もしないからね!」
──本当に先輩は、いやらしいことをしたいわけじゃなかったんだ。
食後席を立たず、なかなか始めようとしなかったのも、終わった後の悲しそうな表情も私は気づかない振りをしていた。
最初のコメントを投稿しよう!