序章 業火転生變・一 新免武蔵  1 鹿賀誠治①

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序章 業火転生變・一 新免武蔵  1 鹿賀誠治①

 二月二十六日・午前九時三分、K拘置所内の廊下に複数の靴音が響いた。  それはある独居房の前で停止し、刑務官がその部屋に収監されている人間の名を呼ぶ。 「鹿賀誠治(かがせいじ)、出房だ」  死刑囚が収監されている拘置所において、この時間に名を呼ばれると言うことはすなわち死刑執行の宣告と同意義である。 「おいおい、嘘だろ」  刑務官がドアを開けると、間の抜けたような顔をして凶暴そうな男が便器に跨がって笑顔を見せている。 「ちょっと待てよ、糞くらいゆっくりさせてくれねえか」  死刑の執行を言い渡されているのに、鹿賀の表情には緊張感の欠片もない。  ほとんどの死刑囚は、この時間通路に靴音が響くと緊張のあまり、生きた心地がしないと言われている。  ましてや自分の房でそれが停止でもしようものなら、その時点で泣き喚き出す輩もいるらしい。  それ相応の罪を犯したのは自分であるのに、やはりわが命は惜しいのだろう。  だが鹿賀誠治に関しては、この常識がまったく当てはまっていなかった。  神経が図太いのか、頭の構造が人と違っているのか刑務官には理解できなかった。  普通であれば刑の執行に立ち合うことに、精神的な苦痛を感じるのが当然なのだが、すべての刑務官がこの男に対してだけはそんな当然の感情を持つことはなかった。 〝やっとこの日が来た〟  そんな清々した思いだけが、みなの心にはある。  声を掛けた刑務官に至っては、排泄をする時間を与えるのでさ忌々しく感じていた。  用便を済ませるのを待ち、職員のひとりが紺色のズボンのポケットから手錠を取り出す。  最近の手錠は見た目もお洒落で、黒いクロームメッキが施されていた。  この時点では通常使われることのない手錠拘束だが、対象者の特異性が考慮され今日は特別に使用された。  さすがに拘束衣までは準備されていない。 「もうあの世行きかよ、随分と早いじゃねえか」  後ろ手に手錠を架けられながら、悪びれた風もなく男が呟く。  裁判が結審し上告も却下され死刑が確定して、まだ一年も経っていない。  これは異常に速いペースでの、刑の執行と言えた。  彼はその事を言っているのだ。  三年ほど前に連日テレビの画面を騒がせた、悪い意味で特徴のある顔がにやりと嗤った。 「これでも遅いくらいだ、自分のやったことが分かってないようだな」  刑務官の一人が、心底不機嫌そうな表情で舌打ちする。  鹿賀誠治・三十八歳、東京都M市生まれ。  前科八犯。  最初に罪を犯し少年院に送られたのは、彼がまだ十三歳の時だった。  罪名は強盗傷害致死。  実際には殺人だ、それもたった一万六千円という金のために。  前日に子どもたちの間で評判の、ゲームソフトの新作が発売された。  彼は前々から発売日を見据え、さんざん親に購入をねだってきたがとうとう買ってはもらえなかった。  周りの友達はみな新しいゲームを嬉々としてプレイし、感想を互いに喋り合っている。  鹿賀誠治はその中にあって、激しい疎外感を感じていた。  夜になり布団に入るが、悔しくて寝付くことが出来ない。  この日も母へ、そして帰宅した父へしつこくねだったが良い返事はもらえなかった。 〝親が駄目ならば、自分の力で手に入れてやる〟  その瞬間それまで平凡であった彼の心が、まったく別のものに変化した。  まさに〝魔〟に魅入られたかのごとく。
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