序章 業火転生變・一 新免武蔵  2 新免武蔵玄信①

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 武蔵の人生の中で後世になり、巷でもっとも評判になったのが『巌流・佐々木小次郎』との立ち合いである。  慶長十七年四月十三日、馬関海峡に浮かぶ舟島と呼ばれる小さな無人の島でそれは行われた。  武蔵は京で吉岡一門を打ち破ったとはいえ、まだ単なる無頼の一剣客であった。  それにひき換え小次郎の名は、すでに天下に鳴り響いていた。  齢はすでに七十八を数え、老境という言い方さえ憚られる老人であった。  越前国宇坂庄浄教寺村の産で、若年時から中条流を盲目の剣豪富田勢源、その高弟で一刀流の開祖である伊東一刀斎の師・鐘捲自斎に学び、一乗瀧にて神技『燕返し』を考案。  これは中条流にある『虎切り』と言う秘太刀を元に、小次郎が創意工夫をし編み出した技であった。  後に自らの流派である『巌流』を創設する。  中条流(富田流)というのは、小太刀のための流派である。  しかしどうやっても師の技量を越えることの出来ない小次郎は、ならば長太刀で中条流を駆使出来れば勝てるのではないかと思い立った。  それ以来三尺の長刀である備前長船・大般若長光を愛用し、日々鍛錬を繰り返す。  人々はその異様な長さから、その刀を『物干し竿』と呼んだ。  その結果、秘太刀虎切りを縦に振るう独自の技『燕返し』が生まれたのである。  素早い太刀さばきの中条流の技を、三尺の長刀で操る小次郎の前には敵はなかった。 〝それにしても、八十近い爺いだぞ。まだ二十代の俺が、まともに相手にするような野郎のはずがねえと思うだろ。それが大間違いだ、やつの腕は益々磨きが掛かってやがった。燕返しをこの目で見たときゃ、心底驚いた。雲ひとつない青空の中、小倉城の中庭で国主・細川忠興公の面前にて披露されたその妙技は、これぞ神速の必殺剣だった。飛び交う燕をまずは上段で一刀のもとに斬り伏せ、目にも止まらぬ早さでその太刀が天へ向かって振り上げられる。瞬時の内に地には二羽の燕の両断された骸が転がった〟  当初は逆袈裟の一閃にて斬っていたのだが、いまでは一刀目の上段でもそれを為している。  技は進化していた。  しかし考えて欲しい、そんなに都合よく燕が城中を飛ぶはずがない。  実は霞網にて捕まえたものを二十羽ほど、寸前で放したのである。  それでも燕は燕、素早さに変わりはない。  武蔵はその日の話しを聞きつけて細川家の重臣・松井興長に頼み込み、木の陰から見物させてもらった。  その当時武蔵は新たに小倉城下にて、細川家の剣術指南役として召し抱えられ道場を開いている。  しかし以前から巌流小次郎も剣術指南として出仕していたから、ふたりの関係が穏やかでいられるわけがなかった。  小次郎を名前だけの老人と見くびっていた武蔵は、その神技を見ると急におとなしくなる。  それまでは死に損ないの爺いだの、見せかけだけの長い刀は役にたたんだの、燕返しなどただのこけおどしだのと、散々悪態を吐いていたのである。  武蔵にはそれだけの自信があった。  実際将軍家の御家流である〝柳生新陰流〟高弟の大瀬戸隼人、辻風典馬にも打ち勝っている。  当主である柳生但馬守宗矩が相手であろうと、勝つ自信があった。  しかし巌流小次郎だけは別物である。  その技を披見し褒めそやす忠興に、小次郎は悠然と言い放った。 〝ただいま、更なる工夫を凝らしております。燕返しに虎切りを合致させた『飛燕虎切り』という技でございます。今度は瞬きの間に四羽の燕を斬って見せましょう。近々御前にてお目に掛けることをお約束いたします〟  それを聞いた武蔵は、空いた口が塞がらなかった。 〝なんだと、あれ以上の技だって。そんなの誰が受け切れるってえんだよ、まるで化け物ンじゃねえか〟 〝あんな凄えやつに敵うわけがねえ、あの技を見た瞬間俺は確信した。立ち合う前からあそこまでの力の差を感じたのは、生まれてこの方一度もなかった。仕合えば必ず殺られる、それは分かりきった事実だ。だから俺自身は、あいつとはなるべく係わらねえようにしたんだ。なあに放っとけば、そのうち寿命が来て死んじまう。そうすりゃ又、この俺が日本一だ。なのに門弟どもが、巌流のとこのやつと揉めちまいやがったんだ。まったく馬鹿野郎どもだよ〟
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