序章 業火転生變・一 新免武蔵  1 鹿賀誠治①

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 目を醒ました鹿賀は上体を起こし、周りを見回した。  右の側頭部に激痛が走る。 〝うっ〟  小さく呻きながら、なんとか立ち上がる。  頭を押さえると、手にヌルリとしたものが絡みつく。  掌が赤く染まっていた、ビール瓶でかち割られた傷から流れ出た血である。  右の耳がキンキンと鳴り続け、音がほとんど聞こえない。  目の焦点が定まらず、いままでに経験したことのない吐き気がする。  多分三半規管が逝かれているらしい。  鹿賀は頭痛に耐え、頭を左右に強く振った。 〝こんなもん、気合いでどうにでもなる〟  なんとも頭のおかしな考えだ。  左右の拳を握りしめ、身体中に力を込めた。  しかし不思議なもので、活気が戻った。  そこはビルとビルの間に挟まれた、細い隙間らしかった。  辺りはまだ暗いところを見ると、夜らしい。 〝そんなに長い間、気を失ってたんじゃなさそうだな〟  自分に言い聞かせるように独り言ちた。  その隙間から這い出ると、大きな道路を挟んだ右前方の雑居ビルに、先ほど入ったクラブのネオンサインが目に入る。 「畜生、このままじゃ済まさねえ」  口の中で呟き、地面に唾を吐き捨てる。  その瞬間ネオンの灯りが消えた。  どうやら閉店の時間らしい。  道路を渡るために車が途切れるのを待っている間に、ビルから七、八人の派手なドレスをまとった女たちがガヤガヤと喋りながら出て来るのが見えた。  それぞれ何人かずつのグループに分かれ、フラフラと歩道を歩いたりタクシーに乗り込んだりしている。  鹿賀が道を渡ったときには、すでにビルの出入口には女たちの姿はなかった。  まだふらつく足で鹿賀はエレベーターに乗り込み、四階のボタンを押した。  扉が開くと幸いにも、まだ店の電気は点いていた。  店のドアを押し、つかつかと中へ入って行く。  フロアの照明は消えているがカウンター内は明るく、さっき見かけたボーイが後片付けをしている。 「ああお客さん、今夜はもう閉店なんです。またのお越しをお待ちしています」  若いボーイは顔も上げず、グラスを洗いながらそう口にした。 「おい、さっきのやつらはどこに行った。細谷はどうなった」  カウンター前まで行き、鹿賀が訊く。 「あ、あんたはさっきの――」  顔を上げたボーイが引きつった表情で、血に濡れている鹿賀の顔を凝視した。  素早くカウンターを乗り越え、シンクの中のタンブラーに立て掛けられているアイスピックを掴み、ボーイの首筋に押し当てた。 「やめてくれ、俺は組とは関係ない。ほんのひと月ほど前に入店した見習いボーイなんだ、だから乱暴はしないでくれ」 「そんなことは訊いちゃいない、やつらはどこに居る。さっさと言わねえとブスッとやるぞ」  ピックの先端が浅く皮膚に食い込む。 「淺川組の本部事務所だと思う、細谷さんなら一緒に連れて行かれちまった。きっといまごろ酷い目に合わされてるだろうな、いい人なのに。事務所は繁華街の外れにあるらしいけど、詳しい場所は知らない。本当だよ、本当に知らないんだ」 「どっちの方向だ、知ってる範囲で教えろ」  しばしの間ボーイはなにかを考えていた。 「ジミーってヤクの売人なら知ってるはずだ。おれと同じくらいの歳の半グレで、この時間ならまだ町をうろついてるはずだ。その辺に居る質の悪そうな小僧たちに、薬を買いたいって言やあすぐに教えてくれるよ。でも気をつけなよ、凄ぇ危ないやつだからなにするか分かんない。ダガーナイフを持ち歩いてるらしいから」  そこまで聞くと、鹿賀は首からアイスピックを放した。 「いいか、組に電話なんかするんじゃないぞ。もし約束を守らなかったら、必ず戻ってきて殺すからな」 「安心しなって、チクったりしない。それよりも細谷さんを助けてやってよ、あの人本当にいい人なんだ。店の女の子にも優しいし、さっきからずっと心配してたんだよ」  そう言いながらボーイは、カウンター隅のウォーマーから熱いおしぼりを数本取り出し、鹿賀の前に差し出した。 〝まったく細谷のやつ、誰彼構わずに親切なやつなんだな〟  彼にしては本当に珍しく、他人に対する感情が湧き上がっていた。 「わかった、任せておけ。あいつは必ず助ける」  おしぼりで顔の血を拭うと、凄惨さが多少和らぐ。 「じゃあな小僧」  アイスピックをズボンの後ろに刺し、上着を被せながら鹿賀は店を後にする。 「また飲みに来てください」  後ろ姿に声を掛ける。  本心から出た言葉だった。  その時若いボーイにはこの男が、ドラマに出てくるヒーローのように映った。  それがまさかあんな惨たらしい大事件を起こすなど、想像すら出来ない事だった。
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