序章 業火転生變・一 新免武蔵  2 新免武蔵玄信①

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〝なんだよまったく、今日はやけに昔のことが思い出される。まさか俺は死んじまうんじゃねえだろうな〟  武蔵は不吉な思いに囚われ〝ぶるっ〟と身震いした。  彼は果たし合いには滅法強いが、戦にはどうもツキがなかった。  参加したのは、すべて負け戦だった。 〝関ヶ原のときゃ参ったぜ、たったの一日であんな事になるなんて。東西十五万以上の人間が集まって、一瞬でケリがついちまった。おかしな話しだ、あの戦は半年や一年掛けて日の本中を巻き込み勝負を決めるはずのモンじゃねえか。あんなにあっさり決まっちまうなんて、治部さま(石田治部少輔三成)もなにやってんだって事だよ、いくら金吾中納言(小早川秀秋)が裏切ったからってまったく情けねえ。如水さまだってあんな事は想像も出来なかったろうぜ、長引いてりゃ今頃『三つ葉葵』じゃなくて『藤巴紋』が天下に翻ってたろうに。そうなりゃ俺は今頃直参か公儀の重役、いや大名だって夢じゃなかった〟  黒田官兵衛高孝・剃号如水の一足軽として、父無二斎と共に彼は関ヶ原を九州の地で闘った。  如水は長い人生の中で、この瞬間に自分のすべての運を賭けた。  生涯で天下取りの機会になど巡り会うことはないと諦めていたが、それが目の前に突然現れたのだ。  自らの才には十分自信はあった、しかし才だけで天下は取れない。  天下というものは、向こうから転がり込んでこなければ取れるものではない。  それを人は〝天佑〟という。 〝儂にやっとその時が来た〟  如水は戦さを始めてから幾十年、自分のためにこの時たった一度だけ嬉々として嗤った。  それまで如水は信長、秀吉のために犬馬の労を執り一身に働いてきた。  一度として、わがための戦などなかった。  しかし、それでもいいと思うようにしてきた。  人には天が与えた運というものがある、自分にはその運があるとは思えなかった。  すでに家督も、嫡男の吉兵衛(黒田長政)に譲っている。 〝一年とは言わん半年でいい、再び戦乱の世が続いてくれれば儂は天下を取ってみせる〟  老境になり思いも掛けず、奇跡のような機会が訪れたのだ。  如水には、確たる自信があった。 〝天下はこの手に握ったも同然じゃ〟  心の底に、若き頃のような燃える想いがふつふつと湧き上がってくる。  そこにいるだけで恐ろしかった信長も、知恵の塊のような不思議な異能の持ち主秀吉もこの世には居ない。  ただの人間でしかない家康とならば遣り合っても勝てる、如水は長年の経験でそれを確信していた。  しかし、関ヶ原はたったの一日で終わってしまった。  西軍壊滅の報を聞いたとき、如水は自分の運のなさを改めて思い知る。 〝治部少めが、なんと間抜けな戦さをしおって〟  三成の戦下手は知っていたが、刑部(大谷吉継)が側についているので、こんな事態になるとは考えてもいなかった。  たしかにこの結果は戦国のこれまでの戦の在り方とは、違ってしまったのである。  だれもがこの会戦の勝敗のみで、すべてが終わるなど思ってはいなかっただろう。  しかし決着はついてしまった。 〝お拾いさまを戦場に担ぎ出せておれば、容易く勝てたものを。大公殿下の馬印と一の谷馬藺後立付き兜が翻る様を目にすれば、豊臣恩顧の諸将は雪崩を打って西軍に味方せざるをおえなくなったに。淀殿が城から出さなかったか〟  如水の脳裏に戦国一と言ってもよい血筋を持つ、〝茶々〟と名付けられた高貴な顔立ちの女性の姿が浮かんだ。  弾正の忠・織田信長の妹である市の方を母に、北近江の名門・浅井長政を父とし、天下人たる豊臣朝臣羽柴秀吉(とよとみのあそんはしばひでよし)の側室として、唯一豊家の跡取りを産んだ女性である。 〝やはり女だな、天下の趨勢を見ることは出来なかったか〟  如水は独り言ちた。 〝やがて内府は将軍位(征夷大将軍)に就くだろうな、豊家も終わりよ〟  口の端に冷笑が浮かんだ。  大坂城には太閤の遺児お拾いさま(豊臣秀頼)がいるとは言え、この時点で内府(徳川家康)が天下に号令することは決定したのである。 〝しょせん儂は、軍師止まりの器でしかなかったか〟  これ以降、如水の中から欲というものは一切消えてしまった。  それと同時に、武蔵の儚い夢も潰え去ったのである。  後に伝聞された宇喜多秀家の軍に加わって、美濃国関ヶ原で敗走したというのは誤りである。  無論本位田又八なんて幼馴染みもいなければ、池田輝政公から幼名のたけぞうをもじって武蔵という名を授かっただの、姫路城の妖怪を退治したというのも嘘っぱちである。  倫魁不羈と謳われた水野六左衛門勝成に従った大坂の陣でも、あまり良い記憶はない。 〝戦は性に合わねえ、人数が多すぎて狡も効かねえ。やっぱりやるんなら一対一の勝負に限る、自分の力量だけで勝てるし目立つのも簡単だ。なんたって狡のし放題だからな〟  本来この島原の戦にも、加わる気は毛頭なかった。 〝なにが悲しくてこの歳になって、一揆退治なんかしなきゃならねえんだよ。相手は切支丹、百姓や食い詰め浪人じゃねえか、三倍もの大軍で囲んどきながらもたもたしやがって。伊織のためじゃなきゃこんな事やってられねえよ〟  伊織とは実兄である田原久光の次男で、彼が養子同然に可愛がっている宮本伊織貞次のことだ。  現在は若年ながら豊前中津藩の執政職(家老)を務め、今回の戦にも惣軍奉行という大役を任されていた。  人を人とも思わない彼でも、血の繋がった甥っ子は可愛いらしい。  この前陣中見舞いをもらった延岡の有馬さまの家臣がやけに張り切っており、今日にも城内に攻め入りそうな勢いである。  剣豪として名高い彼の元には、参陣している諸大名やその家臣が頻繁に会いに来る。  毎日のように人が会いに来るのは煩わしいが、来訪者はそれなりの土産を持参してくる。  それは時に金子であり、高価な物品でもあった。  武蔵は此度の島原逗留に於いて、かなりな実入りがあった。  滅多に顔を見る事のできない有名人に会って話しをしたいのは、いつの時代も変わらない人の世の情であった。  なにせ島原は元々有馬家の領地であったから、思い入れが違うのだろう。  しかも国替えの際に棄城処分とした城が、一揆勢の砦となっているのである。  どうあっても自らの力で城内一番乗りを果たさねば、有馬家の武名が許さないのだろう。 〝この辺で俺も恰好付けとかなきゃ天下第一の剣豪の名が廃るし、伊織の面目も立たねえ。いっちょうやってやるか〟  武蔵は身震いした。  久々に人を斬る感覚が甦ってくる。  それがその後の人生を、いや武蔵という人間そのものを全くの別物に変えることになるのを彼はまだ知らなかった。
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