序章・さくらんぼの恋 ①

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序章・さくらんぼの恋 ①

煙草のヤニと、男の体臭と。 ロックの爆音と、男だけの低い笑い声。 久保田正実(まさみ)は、いつもそんな中にいた。 厳密にいえば、10歳の少年のいる環境としては劣悪だった。 物心付いた頃には、日常的にロックを聴いているという生活だった。 正実の明るいふわふわとした髪や、琥珀色の大きな瞳や、真っ白な肌は とても男子としては相応しくなく。 その見た目のはんなりした雰囲気で、幼い頃から少女に間違えられる柔らかな風貌だったが、中身はそんな容貌に反比例した男らしい性格だった。 人によく、見た目と中身がまるで違うと言われることも少なくはない。 その美少女にも見え兼ねない良い所の坊っちゃん風な正実が、こんな劣悪な環境下にいるのには理由がある。 このヤニ臭い部屋の主であり、ロックバンドのヴォーカルを演っている正実の兄、(たくみ)の部屋にしかオーディオがない。 匠の部屋に来ない限り、良い音で音楽が聴けないからだ。 匠は正実より10歳年上の大学生で、『メタル研究会』というサークルを立ち上げ、学友とバンド活動を行っている。 兄の容姿は、正実が『美少女風』なのとは少し違い、雰囲気は弟と共通している所もあったが、兄はどちらかといえば『美女風』であった。 とにかく派手な顔立ちの上に、モデルばりの高身長で、長い茶髪の巻き毛をたなびかせて大学内を闊歩し、女子生徒達を悶絶させる色男だった。 そんな派手な匠の弟として育ったものだから、正実はどうしても地味なイメージを拭えなかった。 兄は、成績は良いのに女関係の乱れも激しく、喧嘩と飲酒とロックの退廃したスタイルを貫く破天荒な男であり、正実の憧れでもあった。 地味で堅実な性質の正実には、恐らく有り得ない人生だ。 だからこそ、そんな兄に憧れを抱いていた。
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