五島広美

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五島広美

     その日、五島広美は掃除当番だった。  もちろん、彼女一人ではない。何人かのクラスメートが一緒だった。しかし、 「五島さん、ごめん! 私、塾があるの! サボったりしたらお母さんに怒られて、お小遣いカットされちゃうから、今からダッシュで行かないと……」 「今日は来客があるから早く帰ってきなさい、と言われていますの。ほら、うちは、そういうところが厳しい家庭ですからね。仕方ありませんわ」 「私はバレー部の練習が……。大会が近くて、先輩たち、ピリピリしててさ。少しでも早く行かないと、もう(あと)が怖くて……」  などと理由をつけて、一人抜け、二人抜け……。結局、彼女だけになってしまった。  広美は文句ひとつ口にせず、穏やかな表情を浮かべていたが、それは作り笑顔に過ぎない。高校の教室は一人で掃除するには広すぎると、彼女も十分理解していた。  全てが綺麗になったのは、夕焼け空も終わりに向かい、そろそろ暗くなるという時間帯だ。もう一時間も二時間も前に、他のクラスは掃除を終わらせているだろう。  最後の仕上げとして、ゴミ箱を抱えた広美は、ゴミ捨て場へと歩き始める。  額には汗が滲んでいたが、 「ふう……」  校舎の外には涼しい風が吹いており、なんとも心地よかった。  風に軽くあおられて、長い黒髪がサーッとなびく。  地味で大人しい広美が唯一、密かに誇りに思っている美しい黒髪だ。ただし、その魅力をアピールする恋人どころか、女子トークを繰り広げる友人すら、彼女にはいないのだった。 「これで終わり!」  ゴミ捨て場での作業を終えて、自分自身に向かって宣言する。広美らしくない、明るく元気な声だった。  まだ(おもて)のグラウンドでは運動部の生徒たちが騒いでいるが、ここは校舎裏であり、まるで別世界だ。どんな独り言も他人に聞かれる心配はない、という気持ちから、広美は少しだけ開放的な気分になっていたのかもしれない。  ところが、誰もいないはずのその場所で、後ろから彼女に声をかける者があった。 「ずっと前から好きでした! 僕と付き合ってください!」  驚いて振り返る広美。  視界に入ってきたのは、顔を真っ赤にしているクラスメートの姿だった。    
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