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歌いながらスポットライトを浴びる彼女は、まるで虹色に輝く月のような透明感に包まれていた。演奏に合わせて四方八方に放たれる幾筋もの照明は、ステージ上を縦横無尽に伸び縮みする彼女の影を投影する。その影がどれだけ僕らの演奏をひとつにつなぎ止めていてくれたことか…今は亡きその影の存在を、僕は今でも心のどこかで追い求めてしまう。
その影が不思議な動きをすることに気づいたのは、僕らが彼女のバックバンドを始めて間もなくのことだった。彼女の歌声が伸びやかであればある程、影はその分長く伸びた。それは決してライブハウスの照明のせいだけではなかった。彼女の歌心が過不足なく影に乗り移り、僕たち三人にまでその触手を伸ばす。その影は演奏中何度も僕ら三人の楽器や身体に優しく触れてくる。時にはこの身体と同化することさえあった。実際にドラマーであった僕は、影と一緒にスネアを叩き続けているような感覚になった。同じ感覚はギターリストもベーシストも経験済みだという。そのおかげで僕らの演奏は歌と一体になり、その想いは観客に一点の曇りなく届いた。彼女のバックバンドをやめられなくなったのはきっとそのせいだろう。彼女の影は時に観客にまでダイブを繰り返し、ライブ会場全体はこの広大な宇宙にたった一つしかない”小さな星”と化した。
それでも彼女に影の存在を問うことは憚れた。それは触れたら壊れてしまいそうな繊細さを孕んでいそうで、そっとしておく方がいいと思ったのだ。最悪の場合、彼女はもう二度と以前のように伸びやかに歌えなくなってしまうかもしれない。だからバックバンドの僕ら三人は影の存在を胸に秘め、大切に温めていたのだ。四人の演奏で唯一無二の一体感を体現できる、それだけでもう十分だった。
そんなある時、影の噂がファンから持ち上がる。
『女性ボーカルの影が不自然に伸び、観客に乗り移る!』SNSに動画付きでそんな風に書き込まれたのだ。その動画には照明に関係なく、観客の一番後方にまで伸びる影が映っている。それは誰もが目を疑うような、明らかに不自然な影の動きだった。なにしろ照明の投影すべき方向とは全く逆方向に長く伸びていたのだ。その書き込みがきっかけで、影の存在が明るみに出てしまったのだ。
おそらく彼女は自分の影を自覚していなかったのだろう。影の存在を知ってしまった彼女は少しずつ調子が狂い始めた。不思議な影の存在は人々の興味を引き、ライブの集客力は鰻登りに伸びたが、それと反比例するように彼女の影は少しずつその勢力を弱め、同時に伸びやかな歌声もその精細を欠いてゆく。
そしてとうとう普通の状態になった彼女の影は、ただ照明に従って動くだけだった。演奏中にドラマーの僕と一体化することもなければ、観客と触れ合うこともない。当然、演奏の一体感も前よりも希薄なものとなって、ファンも離れていく。
凡人と化した彼女はもう歌えなくなってしまった。バンド活動も中止を余儀なくされる。
彼女はもう二度とあの影を取り戻すことができないのだろうか。僕は療養中の彼女に寄り添って、いつまでも”その時”を待つつもりでいる。
沈みかけの夕陽を背にして二人佇む海岸線。
「いつかまた歌えるかな。私の影は……また歌と共に伸びてくれるかな」
「心のままに歌えば、きっと取り戻せるさ。普通から始めればいい。きっと今までが特別すぎたんだ。無理せずいこう」
二人の影ははるか遠くまで伸びて、地平の向こうまで届きそうだった。
【了】
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