第14章 裏拍

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第14章 裏拍

 あの日突然消えた風花を思い出す。    もし俺に勇気があったのなら、必死に探したはず。だが俺は逃げた。不安と恐怖から逃げた。    心愛からも逃げた。俺は何もかも怖くなってしまったんだ。    だが俺自身の過去からは逃げられない。      南さんのコレクションにWhile She Sleepsが加わっている。    俺はSleeps Societyをリピートしながら流す。ただただ音楽に没入する。      自分が穢らわしい気がして、毎日朝も夜も身体が悲鳴をあげるまで洗った。      ある晩長いシャワーから出ると、スマホに着信があった。母からだ。    久しぶりに声を聞きたい気持ちになって履歴から折り返す。   「もしもし、りくだよ」   「急にごめんね、話さなければならないことがあるの」    嫌な予感がする。   「ココアが死んじゃったのよ」      その知らせに俺は言葉を失う。まだ8歳なのに……猫の寿命の半分しかない。   「重い腎臓病でね。治療したんだけど、体力的にもたなくなっていって」      そこまで聞いて、俺はスマホを壁に投げつけた。    大切なものを全て失った……  俺は仕事中にボーっとすることが多くなった。特に考え事をしているわけではなく、気づくと時間が飛んでいる。      飲酒量が急激に増え、記憶を失うこともあった。だがお酒を飲んだ時だけではなく、日常的に記憶がなくなっているようだ。     「ね……最近のりくさんおかしいよ。酒飲みすぎなんじゃないかな」    歯を磨いている俺に南さんが話しかける。   「ぶっちゃけ、アル中だと思うんだよね」    黙ってると南さんは続けた。   「一回専門家に相談した方がいいよ……」    口をゆすいで俺は聞く。   「専門家って?」   「カウンセラーとか精神科医とか」   「俺はキチガイじゃないですよ!」    ムッとして答えると、南さんは慌てて両手を顔の前でバタバタさせた。   「や、今の時代、メンクリなんて珍しくないだろ? アメリカのセレブなんて専属の医者がいるくらいだよ」      酒をやめれば今の状態から抜け出せるのだろうか。いや……酒でごまかさないと、生きてはいけない。    思い詰めた様子の俺に南さんは優しく言う。   「一人で抱え込んじゃだめだよ。かといって身内には言いたくないこともあるよね。知り合いがアルコール依存症の自助グループに参加しているんだ」    ジジョなんだって……?   「自助グループね。話したいことだけ話せばいい。そこにはりくさんを責める人はいない」      誰かに話を聞いてもらうのも悪くない。少し気が楽になるかもしれない。      まずは都内のメンタルクリニックのサイトを見てみるが、どこも予約でいっぱいだ。    中には新規の患者を受けつけていないところもある。コロナ禍で病んでしまった人が多いのだという。    だんだん焦り始めた頃にようやく、東京都下にあるクリニックにたどりつく。     「うつ病ですね。まずは軽い安定剤をだします」    この展開、ネットに書いてあった。うつ病や不安障害と診断して薬をたくさん出すと。      他のクリニックを受診しても同じような診断だったので、だんだん俺は労力の無駄だと感じるようになる。    クリニックに向かうのも楽ではなかったからだ。    行き帰りの電車の中で急に記憶が飛び、降りる駅を過ぎてしまうことが増えていく。      やがて俺には「解離性障害」の診断がくだされた。   「言いづらいとは思いますが、過去に何かトラウマティックな経験をしたのではないでしょうか」    医師の言葉に俺はいったん顔をそむける。    だが思い切って保育園での出来事を話す。    すると医師の顔が曇っていくのが見えた。   「申し訳ないんですが……うちは男性の患者さんには対応できないんです。」  話せば助けてくれるという期待は裏切られ、俺は絶望感に襲われた。      All That RemainsのSixを思い出す。  
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