第15章 陰鬱

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第15章 陰鬱

 ……もし過去に戻れるとしたらいつに戻る?  ……3歳くらいか?  ……いや戻ったとしてまたあの保育園だ。  ……5歳の「僕」に何ができるだろう。    過去からは逃れられない。でもこのまま灰色の世界を生きていきたくはない。      現実を受け止めたくて、俺は地元に戻った。そして記憶をたどりながら保育園に向かう。    白い外壁に囲まれた白い建物、茶色い屋根。そっと中を覗いてみると、見覚えのある滑り台やブランコ。  だが出入り口には鍵がかけられており、閉鎖されていた。    もう子どもたちの声は聞こえない。    何か……違和感がある。    そうか、「僕」はもうここにいないんだ。「僕」の存在はこの指からこぼれ落ちていった。        俺は絶望しながらスマホをいじり始める。      性暴力、性被害という単語で検索すると、多くの女性たちが声をあげていた。    自分だけが理不尽な目に遭ったと思い込んでいたが、そうではなかった。    たくさんの「仲間」がいたのだ。      そんな中、俺の関心は、雪月と名乗る女性のブログに向けられた。      彼女は高校2年生の時に性被害にあったという。その後支えてくれる男性と出会い、婚約。今は性被害者の自助グループに参加しているそうだ。      その日から俺は、食い入るように雪月さんのブログを読み始めた。  凄惨な被害の話だけではなく、自分自身に起きたことを理解するために必要な情報や知識が書いてある。  それに雪月さんが色鉛筆で描くイラストには、俺の心を癒す力があった。  彼女は自助グループに参加するようになってから、イラストを描くようになったそうだ。  どこまでも続く白い砂浜に透き通るような青い海。静かに輝く星空や月。鮮やかな花や生き生きとした動物たち。    しばらく読むうちに、俺は時々コメント欄に書き込むようになる。愛というハンドルネームを使い、子どもの頃性被害にあった女性という設定にした。    その後雪月さんが公開していたSNSのアカウントにアクセスし、つらいときにはDMで話を聞いてもらうようになる。      雪月さんによると、性被害を打ち明けるとセカンドレイプによって二重に苦しめられることが多いという。    実際彼女は被害を受けた直後、ミニスカートをはいていたからだと両親から非難されている。    そのため、心を通わせていた友達にすら話すことができず、人に知られる前に一家で町を出たと。      俺はいつしか雪月さんを風花と重ねて見るようになった。    そんな油断があったのだろう。つい心愛の話をしてしまう。元カノが性被害を受けたと話してくれたとき、受け止めきれず別れたと。   〈愛さんは女性ですか? それとも男性なんですか?〉      ……しまった!    俺はすぐに謝り事情を話す。だがきっと許してくれないだろう、ずっと自分は女性だと嘘をついてきたのだから。     〈男性だったんですね。それは言いづらいですよね〉    雪月さんは続ける。   〈残念ながら、私が参加している自助グループに男性は参加できないんです。女性の被害者の中には、男性というだけで恐怖を感じてしまう人もいるからです〉      確かにそうだと俺は納得する。      だが男である俺はどうすればいい?     〈生活を建て直していきましょう。元カノさんとも連絡をとったほうがいいと思いますよ〉    …………。   〈愛さん、聞いてください。私は後悔しています、高校のとき、大切な人に何も言えなかったことを〉      心愛の連絡先はブロ削していたが、IDを控えていたことを思い出す。   〈心愛、りくです。あの時は本当にごめんなさい。自分のことでいっぱいいっぱいになってしまった。もう一度会ってほしい。ちゃんと謝罪したい〉      別れてから2年。コロナは5類に引き下げられ、日常生活が戻っていた。    心愛は返事をくれるだろうか。眠れぬ夜を過ごすものの、とても酒を飲む気にはならない。    翌朝スマホの通知音が鳴る。
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