あなたは気付かない

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 大学時代に付き合って、卒業して5年で結婚して、それから5年経って妻との会話をつまらないと感じるようになった。きっかけは些細なことだったのかもしれない。でもそれを思い出すことも、心当たりを探すことももうやめてしまっていた。 「ねぇこの花瓶変えたの、気付いた?」 「ごめん、気付かなかった。いいね、それ」  とりあえず何か聞かれたら謝る癖がついていた。そしてすかさず褒める。これが妻との会話の定型文になっていた。朝の忙しい時になんだよ、なんて口が裂けても言わない。会社の上司と話す時よりもずっと気を遣うようになっていた。 「今日遅くなるから夕飯いらないよ」 「わかった」  前まで夕飯の事はスマホで夕方にメッセージを送っていた。でも毎日のように同じ定型文の会話が並ぶメッセージアプリの画面を見ていたら気味が悪くなってしまった。AIとやりとりをしている方がよっぽど会話をしているように思えた。だからあらかじめ出掛ける前に言うようになった。 「はぁ……」  朝家を出て一番初めにすることはため息になっていた。こんな生活だから魔が差したのだ。魔が差して悪さをしたことなんて今までの人生でなかったし、これからもないだろうと思っていた。真面目に生きて来たつもりだった。しかし気付けば俺も、この都合の良い言葉をきっかけにして許されない過ちを行っていた。 「――今日も私と過ごすんですか?奥さん怪しみません?」 「もうあっちも慣れてるよ。それより家の話しないでもらえる?」 「は~い」  妻と一緒に寝ることも無くなっていた。ここ数カ月はベッドで他人のぬくもりを感じるのは、この会社の後輩の女の子だけになっていた。  初めて女性の部下を持って、いつも以上にセクハラやパワハラにならないように言動に気を付けていたというのに。気付けばこんな淫らな関係に陥ってしまった。 「……香水変えた?」 「そうですよ。どうですか?」 「良いと思う。ネイルも変えたんだね」 「よく見てますね。課長やっぱりモテるでしょ」 「……あのさぁ、ここで課長とか呼ぶなって」  ホテルで二人、裸でベッドで寝ているというのに、家庭や仕事のことなんて思い出したくもなかった。そういえばもう、妻の香水の名前もあやふやだし、ネイルをしているかどうかは記憶がない。 「……今日は花瓶が変わったことにすら気付けなかったけどな」 「何ですかそれ?そんなこと気付かないといけないんですか?結婚て大変ですねー。てか自分から家の話してるじゃないですか」 「んー?」 「ねぇくすぐったい……」  くだらない会話が楽しい。背徳感に包まれながらじゃれているこの時間だけは、俺は満たされていた。 「そういえばさぁ……ノビルって知ってる?」 「なんですかそれ」  俺は以前に妻とした会話を思い出していた。 『――それ何?ニラ?』 『ノビル……お母さんが送ってくれたの。他にもお野菜いっぱい届いたの』  ある日家のキッチンに見たことがないニラにらっきょうのようなもの着いた草が置かれていた。田舎育ちの妻の実家は農家をしているから色んな野菜が届いて家計を助けてくれていた。 『ニラとかスイセンに似てるけど……まぁあなたには違いは分からないでしょうね』 『……ごめん』 『謝る必要ないでしょ?』 『……そうだね』  息の詰まる会話。どうせ全部料理してもらって違いも分からず食べるだけの俺。美味しい以外の感想を言うこともない――。 「なんかさ、ニラに似てんだけど違うんだってよ。俺は家じゃあ何も違いに気付けない男みたいだよ」 「なんで私のネイルの話がニラの話になるんですか?もう、雰囲気ない……えーっと、ノビルはぁ……土手や道端に生える野草らしいですよ?そこら辺に生えている草食べさせられてるんですねー」  都会育ちで常にスマホと一緒のこの子はすぐに調べるのが癖になっているらしい。ただし興味は特になさそうにしている。野草なんて食べたこともないのだろう。まぁ、俺も今初めて野草を食べていたことを知ったが。 「……へぇ。ノビルに似ているスイセンは毒性を持っている……死亡例もあるらしいですよ?課長、あんまり悪さできませんね」  ゾワッと背筋に寒気が走った。悪さをしているのは君も同じだろうに。目の前のこの若い女はいつか俺だけが妻に殺されるとでも思っているのだろうか。しかし既にノビルというものを妻の料理で食べていて、今は元気だという事実に安堵している自分がいた。 「だから課長って呼ぶなって」 「ごめんなさ~い……えぇ?まだしたいんですか?」  家庭のことを忘れるために関係を持っている。昨日は朝帰りをしたから今日は帰らないと怪しまれると思っていた。家庭のことを思い出したまま帰るなんて、出来なかった。 * 「おかえりなさい」  どれだけ遅くなってもちゃんと起きて待ってくれている。それが今までは結婚して良かったと思える理由ですらあったのに、今はもうリビングのドアを開ける前に気配を感じるだけで気が重くなっていた。 「ただいま……」  薄暗いリビングルームで、今朝見せられた花瓶と妻だけが淡い灯かりに照らされていて、不気味だと思った。 「先に寝てて良いって言ってるのに……」 「ごめんなさい。でも待っていたいの……ねぇ」 「何?」 「……香水変えた?」 「え?あー、ほら、同僚の子が香水キツいから移ったのかも。でもさぁ、匂いすごいですよ、なんて言えないだろ?」  言い逃れ出来たと思っていた。いつもはこれ以上会話が往復することなんてなかったのに。 「……そうね。それに昨日とは違う匂い」 「そう?……よく気付くね」 「そう、私はちゃんと気付いているの……でもお母さんと似てるから」 「お義母さんがどうしたって?」  何故か今だけは俺も会話を続けてしまっていた。 「お母さんもちゃんと気付ける人だから……でも一回だけ気付けなかったことがあって……それでお父さん、病院に運ばれたことがあったの。居酒屋で仲良くなった女性と一緒にね」 「何の話をしているの?」 「ノビル……似ている物が多いの。あなたは気付かないだろうけど……私はちゃんと……“気付いている”から……気を付けないと……ね?」
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