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人をスナック菓子のようにぱくぱく食べていく改札を抜け、モザイクアートのような人混みに紛れ込んで階段を滑り降り、列車が両腕に抱えて持ち込んだ風に体幹で対抗し、ピロリンピロリンと軽い音を垂れ流すホームから静寂の車両に乗る。左手で吊革にぶら下がり、スマートフォンを操作する。なんとなく、もう一度聴きたい気分だったので、『ノイズ』を再生した。
笹山のSNSが更新されている。恒例行事の如く、「いいね」をタップ。彼女は声を出すことこそできなくなったが、湧き出る音楽は形にし続けている。
「新曲を書きました。初めてのラブソング。なんとあの人が歌ってくれます。続報、乞うご期待!」
二度、瞬きをして。肩を上下させて。俺は、笹山莉乃宛てのダイレクトメッセージを開いた。物理的に、いや情報的にしか届かないけれど、俺は自分に酔ったポエマーのつもりで、彼女だけに贈る言葉を綴ってみた。
「初めまして、近藤大地といいます。一応、陸上選手です。明後日、十時からのレース、そのたった十秒で、自分の選手としての日々はたぶん、終わります」
次の駅に着く。ぼんやりと車内広告を眺めてみると、生命保険の見積もりが三十秒で済むよ、なんていうチラシが目に入った。ふん、俺の陸上人生は見積もり未満か。
「自分は走る時、周りからのノイズをシャットアウトできず、集中しきれないことで、タイムを落としてきました。本当は『破いて突き進んで』走りたいんですけど」
トンネルに入る。出口に向かって、列車は迷うことなく「突き進んで」いく。羨ましい。
「明後日も走る前、『ノイズ』を聴こうと思います。もちろん、今度の曲も、出たらすぐに聴きます。でも、欲を言えば、あなたの声で聴きたい」
何言ってんだ、俺。
笹山莉乃の声で新曲を聴きたい、それは紛れもない事実ではある。だがしかし、いちファンである俺の要望など、ノイズにすぎない。彼女の声を否定したそいつらと、俺のわがままは、もはや同列である。本人の気持ちなどわかっちゃいない、ただの外野の声。
こんなの、送るもんじゃない。
親指を背伸びさせて、文章を削除しようとした時、悪戯にも列車ががこんと揺れた。忌まわしい右手の親指は、送信ボタンをタップしていた。送信を取り消せるなんていう、ご丁寧な機能はない。
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