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23
私の顔の右側から血が噴き出した。
自分で見る術はないが、灼熱に当てられたような感覚で想像がつく。右頬から耳にかけてを切り裂かれたのだろう。とっさに避けなければ、頭をかち割られていた。
私はしゃがみ込んだまま、テントの入り口に立つ奈緒を睨み付けた。
「すごいね、あれを避けるんだ。相変わらず、すごい反射神経だね」
奈緒がテントに入ってくる。
「来るな!」
私は背後にあった。ストーブを掴んで投げつけようとした。しかし、大型の石油ストーブはその重さでほとんど動かない。がちゃんと奈緒と私の間に倒れ込んだだけだった。とくとくと灯油が流れ出て、絨毯に染み込んでいく。
私はばたつくように立ち上がって、奈緒と距離をとろうとした。しかし、すぐにテントの壁にぶち当たる。逃げられない。唯一の入り口の前には斧をもった奈緒が立っている。閉じ込められた。頼みの綱のスキレットはテントの入り口に転がっている。
奈緒はにこにことしゃべり出した。
「スマホ。まさか、雪だるまに埋まってるとはね。一生懸命、周りを掘り返してたのが馬鹿みたい。流石なっちゃんだよ」
奈緒はおもむろに、手袋をはめた右手を差し出した。
「あたしのスマホ、返してくれない?」
奈緒は私の手に握られた白いスマホを見ていた。
「あたしのスマホ? レイジのでしょうが」
奈緒がピクリと動きを止める。
「自分のスマホを落としたなんて、嘘だったんでしょ。これは、初めからレイジのスマホよ。あんたがこのスマホを探してた理由は一つだけ」
私はレイジのスマホをぎゅっと握りしめた。
「あんたが、レイジを殺した瞬間が、映ってるからだ」
数秒、動きを止めた奈緒は、また笑顔を作った。差し出していた右手を引っ込め、斧の柄を、拍手をするようにポンポンと叩いた。手袋のふわふわの生地のせいで何の音もしなかったが。
「すごいすごい! 名探偵だ!」
奈緒は思い出すかのように虚空に目をやった。
「いやー。どこにあるのか全然わからなくて、焦ったなー。それで、これはもう、なっちゃんを頼るしかないと思ったの。幽霊が見えるなっちゃんなら、きっと見つけてくれるって」
私はそれを聞いて、理解した。ようやく気づいたと言ってもいい。
この世には、罰も、奇跡も、運命もない。
あるのは行動と、結果と、責任だけだ。
なぜ気が付かなかったのか。
奈緒が、私に会えたのが奇跡だの運命だの言い始めた時に、私は気づくべきだったんだ。そんなはずはない。そんな偶然、あるわけないんだ。
彼氏からの暴力に苦しむ女性と同じキャンプ場に、長年疎遠だった昔の親友が、偶然居合わせるなんてそんな運命みたいな奇跡、あるわけがない。
奈緒はいつもの癖で肩辺りを手でなぞり、自分がロングヘアでないことに気が付いて笑った。
「切ってもらった髪、まだ慣れないなあ。やっぱショートはやり過ぎだったかな。このカラーは気に入ってるんだけどね。なっちゃんも褒めてくれたし」
今回、このキャンプ場に連れてきてくれたのは美音だ。この場所を選んだのも美音。
美音との、朝の会話を思い出す。
『すごくいいところだね』
『はい。私も知り合いに教えてもらったんですけど』
奈緒は改めて、耳の辺りからショートカットを撫でた。黒髪がなびき、青いカラーが見え隠れする。
『この前なんか、お店に『動画見ました!』て、私を指名してくれる若いお母さんが来てくれたんです。しかも、その日のカットが気に入ってくれたみたいで、後日にカラーにも来てくれたんですよ。』
奈緒はニュースやワイドショーで私の報道を見たのだろう。
私の人となりを実際に知っている奈緒ならば、さっちゃんチャンネルの「サマーちゃん」が私であることに確信を持てたに違いない。そうすれば、当然、次はチャンネルで紹介された美音の美容室に行く。
美音にとって、奈緒は初めての指名客だ。用心深い美音も、警戒心など抱きようがない。奈緒が何を言っても、すんなり信じただろう。
あとは二回の来店の中で、自分はキャンパーなのだと、適当に水を向ければいい。
美音は私のために安全なキャンプ場探しをしている途中だったんだし、キャンプ場探しを相談したかもしれない。そこで、女子キャンパーおすすめのキャンプ場があると聞けば、美音はさぞ喜んだに違いない。知り合いの直接の体験談ほど、信頼性が高い情報はないのだから。
「やっぱ、運命なんて、ないってことね」
私はそう言って、自虐的に笑った。
訪れたキャンプ場が殺人鬼の巣だったことがあった。間違えて行ったキャンプ場が集団自殺の場だったこともあった。しかし、今回は迷い込んだんじゃない。
私は、奈緒にこのキャンプ場に引き込まれたのだ。計画的に。
奈緒は賢い子だった。それと同時に、馬鹿な振りをするのも得意な子だった。
「そお? 私は運命だと思うけどなあ」
奈緒がうそぶく。よく言うぜ。
奈緒がまた手を差し出す。
「ねえ。そろそろ返してよ。あたしのスマホ」
「あんたのじゃないって言ってるでしょ」
「あたしのだよ」
奈緒はにやりと笑った。理科準備室の鍵を盗んだときの、あの笑顔。
「レイジを殺して、あたしがレイジになったんだもん。あたしのだよ」
ぞっと背筋が寒くなる。
もう、この子は、とっくに壊れているんだ。
「返してくれないの? しょうがないなあ。せっかくだからもっとお話していたいけど」
奈緒は片手で肩の斧を支え、もう片方の手を腰に置き、ため息をついた。
「先に殺しちゃうか」
一歩踏み出そうとする奈緒に私はさけんだ。
「来るなって言ってるでしょ!」
私はレイジのスマホをポケットに入れ、同時に首から紗奈子のネックナイフを引き出し、鞘から引き抜く。
ナイフを両手で持って、奈緒に向けると、奈緒は吹き出した。
当然だろう。刃渡り5センチのおもちゃみたいなナイフだ。大斧を持っている奈緒との戦力差は歴然。そりゃあ、笑ってしまうさ。
だが、私が左の手の平に隠していた小さな棒を奈緒に向け、その棒におもむろにナイフを垂直に添えると、奈緒の笑顔が固まった。
「・・・・・・何? それ」
「知らない? マグネシウムよ」
言うと同時に私はファイヤースターターをナイフの背で勢いよくこすり上げた。
3千度の輝く火花が、私と奈緒の間に飛び散る。
そして、私と奈緒の間には、灯油ストーブが転がっていた。
『灯油なんかだと、発火点が高いから、マッチの火ぐらいじゃ発火しないことも多いんだけど。でも、灯油も何かにしみこませたりしたら、すごく燃えやすくなっちゃうから気を付けてね』
じゃあ、足立先生。灯油がたっぷり染み込んだ、ふかふかの絨毯とかは、どうなるんでしょうね。
呆然とする奈緒の足下に落ちた火花の一つが、絨毯に「ボッ」と音を立てて引火した。奈緒が悲鳴を上げる。そこから放射線状に一気に燃え広がる。
瞬く間に、テントの中は火の海になった。
間髪入れず、石油ストーブが火柱を上げた。火の粉が飛び散り、奈緒が叫ぶ。私はとっさにジャケットの袖で頭部を守った。火の活動を想定して設計された難燃素材の生地は、飛び散った火の粉から私を守り切る。
しかし、奈緒が着ていたのは非常に燃えやすいポリエステル製のダウンジャケットだった。
火の粉をまともに食らったダウンジャケットは、一瞬で生地が溶け、中の綿が燃え上がった。奈緒の上半身が火に包まれる。
奈緒は絶叫した。
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