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木下茂雄が孫の芽衣子を看取ったとき、芽衣子は最後までテレビを見つめていた。その病室には設備上、本来はテレビをおけなかったのだが、茂雄が床に頭をこすりつけて病院側に頼んだのだ。
茂雄にはそれぐらいしか、できることがなかった。
芽衣子がその時のテレビ番組をそこまで楽しんでいたとは思わない。でも、芽衣子はずっとうれしそうに、誰かを待っているかのようにテレビを見つめていた。
ついに最後の吐息を吐き出したときも、まるで何かを楽しみにしているかのようなそんな微笑みを浮かべていた。
芽衣子が、一度も会ったことがないような親類の墓にいるとは、茂雄にはどうしても思えなかった。だから、喫茶店の芽衣子の席はそのままにした。茂雄は自分ではテレビを見ないが、毎日テレビを付け続けた。暖炉の火も絶やさなかった。誰もいない芽衣子の席に、毎日ココアを置き続けた。客には変な目で見られたが、構わなかった。
そんな中、事件が起こり、喫茶店にも、キャンプ場にも客がぱたりと来なくなった。それでも、茂雄のすることは変わらなかった。妻が愛したキャンプ場を毎日整備し、孫が好きだったココアを毎日作った。
ある日、カランとドアの鐘が鳴って、久々の客がやってきた。
見覚えがある客だった。あの事件の日に暖炉を眺めながらコーヒーを飲んでいった女性客だ。右頬から耳にかけてうっすらと切り傷が見える。事件について、文句でも言いにきたのだろうか。
だが、その女性客は「コーヒー、お願いします」というと、すっと、席に向かった。また暖炉を見に来たのかと思ったら、芽衣子の席にまっすぐ向かった。
「その席は使えん」とそう言おうと思った矢先、女性はわざわざ芽衣子の席を空け、テーブルの奥、二人席の奥側に座った。芽衣子の席の隣だ。
女性はおもむろに鞄から大きめのタブレットを取り出した。A4サイズほどだった。電源を入れて、やおら動画を見始める。
若いやつの考えることはわからん。
そう思いながら、コーヒーを入れる。お湯を沸かしついでに、芽衣子のココアも作る。
二つのカップをお盆にのせて、席に向かうと、茂雄は面食らった。女性客の姿が消えていた。
タブレットはテーブルに立ててあったままだったので、トイレに行ったのかと思い、芽衣子の席にココアを置き、隣にコーヒーを置く。
そこでテーブルに千円札とメモ用紙が置いてあるのに気が付いた。書き置きがある。
『タブレットは差し上げます。無料でもらったものなので』
何を言ってるんだ。
よくわからなかったが、コーヒーがキャンセルになり、このタブレットは不要なものとして置いていかれたということはわかった。
ため息をつく。もったいないのでコーヒーは自分で飲むことにした。そのまま芽衣子の隣の席に座る。
タブレットは動画を流し続けていた。
見ると、画面の中で金髪の青年が、年甲斐もなく雪の中で遊び回っていた。
眉をひそめてしばらく眺め、茂雄は気づいた。この景色、うちのキャンプ場じゃないか。
ネットも見ず、テレビも耳で拾う程度の茂雄は気が付かなかった。その青年が事件の被害者であったことを。
妻以外の人の顔をまっすぐ見ることがなかった茂雄は気が付かなかった。その青年が昔、孫娘の唯一の友人の、あの少年であったことを。
だがそれでも、青年が心からキャンプを楽しんでいることはわかった。妻と二人で作り上げ、茂雄が一人で守り続けてきたキャンプ場を、青年が愛してくれていることが確かに伝わってきた。
ふと、隣を見ると、テーブルに置かれたココアがわずかに揺れていた。まるで、少女の吐息がかかったように。
芽衣子、笑ってるのか。
茂雄は画面に目を戻した。青年は雪玉をころがして、雪だるまを作る。雪を積み重ねて、かまくらを作る。これでもかとチーズを伸ばして、チーズフォンデュを頬張る。
「そうだな。うれしいな」
老人の目から涙がこぼれ落ちた。自分にはもう涙なんて出ないと思っていた。もう乾ききったと思っていたのに。ぼろぼろと、次から次へとこぼれ落ちていく。
「うれしいなあ」
木下老人は繰り返した。妻に先立たれ、息子を事故で失い、孫娘をその手で看取った老人は、涙で頬をぬらしながら繰り返した。
「うれしい。うれしいなあ。芽衣子」
ありがとう。ありがとうなあ。うちのキャンプ場であそんでくれて。ありがとうなあ。
老人は隣の席に手を伸ばした。誰も座っていない椅子の上を、まるで抱きしめるように。まるで、少女の頭を撫でるように。
暖炉の薪が小さく爆ぜる。
窓から差し込んだ暖かい陽の光が、二人をやさしく包み込んだ。
【END】
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