身の丈を刻む

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身の丈を刻む

 事の始まりは、クソ親父から送られてきたメッセージだった。 『伝えたいことがあります。今度の土日、実家に帰ってきてください』  相変わらず人のことを考えない人だ。親父はいつもそうだ。夕飯の献立が気に入らなければあてつけのように料理を残し、大酒をかっくらえば不機嫌に何かを叫び散らす。我が家は常に親父の機嫌を中心に回っていた。子どもの頃はそんな親父が怖かったが、今はそのときの恐怖も相まって嫌悪の対象になっている。その親父からの呼び出しのメッセージ。正直帰りたくない。だが、呼び出しを断ろうものなら烈火の如く怒り狂った長文が届くのだろう。それも面倒だ。  実家に帰るしかない。  俺はため息をつきながら、ただ『分かりました』とメッセージを返すのだった。  実家に帰ると疲れ切った顔の母親が出迎えた。相変わらず親父の機嫌に振り回されているのだろう。母親も働いているから、離婚しようと思えば離婚するタイミングはいくらでもあったのだ。なのに、自分の意思で親父から離れない。俺は母親を哀れだと思いながらも、内心理解できずに呆れている。母親によると、親父は居間で俺のことを待っているらしい。俺は少しうるさい鼓動を押さえつけながら、居間の障子を開けた。 「帰りました」 「おう」  親父はテレビを見ながら、猫背で座布団の上に座っていた。障子が開く音を聞いて、親父が俺の方向を見る。俺は親父の顔を正面から見て、驚いた。痩せている。というより、やつれている。思えば、今までは生活態度は悪いにせよ背筋はもっと伸びていた気がする。白髪もここまで多くなかった。俺が親父の老いを目の当たりにして固まっていると、親父が俺を促す。 「いつまで突っ立ってる。座れ」 「……はい」  俺は親父の言葉を聞いて我に返り、机を挟んで親父と向かい合って座った。俺が座ったのを確認すると、親父はテレビをピッと消す。いつもの調子だとこれから何時間拘束されることになるか。俺が諦めの境地でそんなことを思っていると、親父はこう切り出す。 「実はな、がんが見つかった」 「……へえ。どんな?」 「末期の胃がんだ。もういろんなところに転移しているらしい」  末期。転移。この言葉が並ぶ限り、親父はもう長くないのだろう。親父もその先を言い淀んでいるらしく、「ううん……」と俺から目をそらしながら唸っている。 「それでな……俺は、もう長くないんだと」 「具体的には?」 「……医者は、もって半年だとよ」 「そう」  親父があと半年以内に死ぬ。死んでくれる。ただそう思った。そこには喜びも、悲しみも一切ない。ただ、あっさりとそう思っただけだった。  親父は黙り込む。俺も特に言うことがないので、黙っている。いつまでこんな不毛な時間を過ごしているのか、そう思い始めたとき、親父がぽつりと呟いた。 「……悪かったな」 「……え?」 「今まで、ろくな父親じゃなかった。お前をこんな風に育ててしまったこと、後悔している。すまなかった」  そう言って、また黙り込む。  親父の悔恨を聞いて、改めて、はっきりとこう思った。  ああ、コイツはやっぱりクソ親父だ。早く死ね。  俺はただ黙っている。親父はとうとう沈黙に耐えられなくなったのか、俺の機嫌をとるようにこう言い出した。 「いつまでここにいるんだ?」 「明日には帰ります」 「そうか。ゆっくりしていけ」  そして、またテレビをつける。猫背を俺に向ける。その姿が何だか腹立たしくて、俺は煙草を吸いに玄関の外へ向かった。  久しぶりに会った親父は、自分の家なのにまるで借りてきた猫のようになっていた。母親の料理にケチをつけることなく静かに食事をし、日本酒を黙ってちびちびと啜る。余命宣告をされて、すっかり意気消沈してしまっているらしい。母親もそんな親父に変に気を遣っているのか、どこかよそよそしい感じだ。この家はまだ住人がいるというのに、既に主を失ってしまったかのように思われた。  そんな実家の雰囲気も気に食わなくて、俺は夕食を終えるとすぐに縁側へと向かい、庭で煙草を吸った。この家にいると、煙草が何本あっても足りない。親父や実家に対する苛つきを煙で紛らわしていると、廊下から弱々しい足音が聞こえてくる。親父だ。 「おう……今、いいか?」  そう言って、親父はぎこちなく笑う。いいも何も、親父とはできるだけ関わりたくない。だがそう伝えるのも面倒で、俺は無言を貫いた。無言を肯定と受け取ったのか、親父は俺の隣に座って煙草を吸い始める。 「ついこの間までちっちゃいガキだったのによ、もう俺と並んで煙草を吸うようになりやがった」    口から煙を吐きながら、親父はつらつらと勝手に語り始めた。  俺は応えない。 「ほら、覚えてるか」  何も言わない俺に焦ったのか、親父は後ろにある木の柱を指さす。その柱には、不器用な横型の傷と、不器用な文字がいくつもついている。 「昔はよお、毎年この柱にお前の身長をつけてたよなあ。いつからかしなくなったが……。誕生日のたびによお、俺に身長つけてくれって言ってたんだ。懐かしいなあ」  親父は立ち上がり、柱を愛おしそうに撫でた。 「お前、こんなにちっちゃかったんだなあ。でっかくなったなあ」  そんな言葉が聞こえてくる。  俺は応えない。 「ほ……他にもよ、昔はよくお前を肩車してたよな。お前、肩車大好きだったんだぞ。俺が疲れたって言っても、全然聞いてくれなくてなあ……」  俺は応えない。 「自転車の練習をしたのは覚えてるか? 俺が内緒で支えてた手を離してよお、お前は気づかずに自転車を漕いでいったんだ。それがおかしくてなあ」  俺は、応えない。応えない。 「なあ、お前……」  親父は何かを言いかける。言いかけて、ぐっと口をつぐんだ。 「……悪かった」  親父は煙草の火を消すと、弱々しい足取りで縁側を去って行った。  俺は煙草の煙をすうっと吸い込む。  親父の言ったことは、全て本当にあったことだ。  誕生日の度に、身長を柱につけてもらった。  親父の肩車が大好きで、よくせがんでた。  自転車の練習に付き合ってくれたのは、親父だった。  俺は吸い込んだ煙草の煙を、今度は思い切り吐き出す。  親父を純粋に好きでいるには、俺の身長はあまりにも伸びてしまった。  俺は煙草の火をぐちゃっと消し、自分の部屋に向かった。取り出したのは、小学校の工作で買ってもらった小刀だ。それを持って、縁側の木の柱まで戻ってくる。  木の柱に書かれた不器用で、決して綺麗とは言えない文字を読む。俺の名前の横に、何歳、何センチと書かれていた。その記録を一年ずつ、指で丁寧になぞっていく。やがて途切れたその記録を続けるように、俺は立ち上がり、小刀で身の丈を刻んだ。  身の丈を刻む 完
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