蒼天の谷の歌声

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 伸びやかな声が蒼天のもとで(ひび)く。  谷を越えて、緑茂る向こうの山へ届く。  今日の気持ちを、心を込めて伝える。  すると、しばらくして、向こうの山から帰ってくる。先ほどよりも低い、でも、よく通る声。下から上がってくる、激流の音にも負けない声。  昨日のことや今日のこと、そして、相手のことを気遣う歌。  天気が悪い日以外はずっと続いている、二人だけの習わし。  二人がまだ、七つか八つの頃から続く。  最初は、少女が歌っていた。毎日、斜面の畑を上り下りして、山羊に餌をやりながら。  それから、二月ほど経った頃。  今度は、少年が歌い始めた。少女が歌うとそれに答えるように。最初は澄んだ高い声で、少女は少年を自分と同じ年くらいの少女だと思っていた。可愛い勘違い。  ところが、だんだん少年の声は変化して、とうとう低い声に変わり、ようやく少女は相手が少年であることに気がついた。  どんな人だろう。いろんなことを思いながら、少女は歌を紡ぐ。  少年も歌を紡ぐ。山向こうの相手は少女だと知っていて、温かな歌声を聞きたくて、始めた返事。  急斜面の木を切り開いてできた、急な畑を耕しながら、少年も歌を紡ぐ。  青い空を、小鳥のさえずりを、そよぐ風を、緑の空気を、土の気配を、木々の力強い音を――。  少女の姿を思いながら歌を紡ぐ。  近いのに、遠い存在。  いつも、眺められるのに、渡ることができない。  二人を遮る、断崖絶壁。  荒々しく大地を削る激流。  どれほど、願っても渡れない。  何度も渡ろうとすれども、渡れず。  先祖達も試したが、誰一人渡ることのできない流れ。橋を架けようにも、渦巻く流れになぎ倒され、吊り橋をかけようにも、上空に渦巻く風の流れに吹き払われた。  なんとか、両岸に縄を渡すことのできた強者もいたが、一度、大雨になった時に切れてしまった。それは、少年と少女がほんの二、三歳の時でそれ以来、誰も挑戦しなくなった。  少年は青年に、少女は乙女に成長した。  そして、今日も歌う。  毎日、激しく胸の内を恋に焼きながら……。  相手を思う、今日の気持ちを――。  二人は誰も娶らず、誰にも嫁入りせずに歌を歌い続けた。  月日は流れ、少年は老爺に少女は老婆になった。  一度も、手を取り合うことができず、一度もはっきりと互いの顔を見ることができず、ただ、歌で気持ちを伝えた。  やがて、その日が来た。  静かに雪が舞う中、小さな小屋に横たわる。板の隙間から冷たい北風と共に雪が入り込んできては、板の上で舞っていた。  もう、声は出なかった。  もう、動くこともできなかった。  ただ、寒さに震えながら、(むしろ)の上に横たわるだけ。  少年は目を閉じた。  奇しくも、同じ時、少女は目を閉じた。  二人は今、少年と少女の時に戻っていた。  体は軽くなり、気がつけば春の青々とした蒼天が広がり、緑深い山々が眼窩(がんか)に見える。  もはや、激流は二人を分けることはなかった。  二人は気づけば、崖上の道に立っていた。向こうに見える人影。それに気づいて、お互いに走り寄る。  そして、喜びに息を弾ませながら、両手を取り合った。  何も言わなくても分かっていた。  心は通じ合っていた。  歌で、お互いのことは分かっていたから。  どちらともなしに歌い出す。  蒼天の緑の谷に、伸びやかで温かな男女の歌声がいつまでも響いていた。
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