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小学校5年生最後の給食は、麻婆豆腐だった。 ちっとも辛くない麻婆豆腐。すっかり冷めて生ぬるい麻婆豆腐。 お母さんの麻婆豆腐が食べたいな、なんて思いながら私は下校している。最近はすっかり暖かくなった。お庭に咲く梅や桃を眺めながら歩いてくると、小さな畑のある古い二階建てが見えてきた。畑には、ほうれん草、小松菜、カブが植わっている。ここが私のおうちだ。 私は鍵を刺してドアを開けた。 「ただいまあ」 返ってくる声はない。 仕方ない。私は居間に入り仏壇の前に座ると、チンと鐘を鳴らしてお母さんの写真に手を合わせた。お母さんは一年前、病気で亡くなってしまった。お母さんは中華料理が得意だった。回鍋肉、青椒肉絲、東坡肉、トマトと卵のスープ、それから勿論、麻婆豆腐も。 「真奈。おかえりい」 チンの音で気が付いたのか、二階からお父さんの声が聞こえた。 「ただいまあ」 「これ、すぐ終わるからさ。ちょっと待ってて。すぐ降りる」 お父さんはプログラマーだった。お母さんが病気になってからは在宅勤務になり、家のことをしながらこうして二階の自分の部屋でお仕事をしている。 一息ついて私が麦茶を飲んでいると、ほどなくお父さんが二階から降りてきた。あれ、手に何か持ってる。 「真奈。お楽しみがあります」 「なあに」 広げたお父さんの掌の上には、一粒の豆。 なんだろこれ、カシューナッツ? 「ぶぶう」 「なあに」 「種だよ。植えよう」 「一つだけ?」 「そう」 「なんの種?」 「秘密。野菜だよ」 「野菜?」 こうして私たちは庭に出ると、たった一粒の種を二人で植えたのだった。お父さんは最後までそれが何の種なのか教えてくれなかった。 4月になり私は小学6年生になった。 下校して家に着いたらまずお庭に回る。ひと月前に植えた植物の観察と水やりが私の日課、それから私の役目。「そろそろ追肥だね」とお父さんからは言われていた。追肥のやり方はお父さんに教わった。さてと。 おお、また伸びてる。 種を植えて一週間たった3月最後の日、カシューナッツのような種の殻をかぶったまま、白い小さな芽はむっくりと土から顔を出した。数日後、殻を落とした芽から双葉が生え、それからはみるみる茎が長く太く成長したのだった。そしてそれはやがて小さな球を作り始めた。 今はそれが、ソフトボール位の大きさになっている。これはキャベツとかレタスとか、そういう葉物野菜なのかな。 そう考えながら化成肥料をパラパラと苗の周りに撒くと、移植鏝で少し掘り返し、水やりをした。 何が出来るのかわからないけれど、うまく育ってくれるといい。 5月になったある日、私が学校から帰ってくるとお父さんが庭に出て私を待っていた。 「よかった。間に合ったね」 「なあに」 「兆しがあったんだよ」 私はお父さんが指さす植物の方を見た。植物は大きく成長し、白菜のような白い肉厚の葉が結球している。球の中心からは一本の太い茎が伸び、その上には空と平行に真上を向いた黄色いひまわりのような花。その花の中にぎっしり詰まったカシューナッツのような種が、今はすべて立ち上がっているのだった。今朝はこうではなかった。私が花を見つめていると。 ぱん 音とともに、種が弾けた。 ぱんぱんぱんぱん まるで爆竹を鳴らす中国のお正月みたい。 庭はたちまち植物の種でいっぱいになったのだった。 「今夜だよ」 お父さんは言った。何のことだ? その夜、私は言われるがまま、お父さんのお手伝いをした。 今、その植物の周囲には、ごま油、ニンニク、ショウガ、豚肉、きくらげ、ニンジン、鶏がらスープ、醤油、むきエビ、ウズラの卵、溶いた片栗粉が各々小皿に入って置かれている。 「なにが始まるの?」 「いいから見てて。ほら」 と突然、植物は自らの力で発火したのだった。 みるみる上を向いた花を下から炙る炎。 「何?」 「はは」 ほどなく、球を成した白菜状の外葉が腕のように伸び、ごま油の小皿に触れたと思うや、それを掴み、花の中のお昼まで種があった場所にその中身を放り込んだのだった。 「すごい」 「ね」 外葉は植物の周りに用意された食材を次々と花の中に放り込んだ。花はさながらフライパン。ぐらぐらと揺れ、食材をかきまわしている。そして最後は白菜状の外葉が次々にはがれ、油で熱された食材が待つ花の中に自ら飛び込んでいったのだった。 「お父さん、これは何なの?」 「これは、八宝菜。真奈が植えたのは八宝菜の種だよ」 やがて花を包んでいた炎が消えると、出来立ての八宝菜が乗った花は静かに地面に落ちた。 「できたね」 「お父さん、こんな種。どこから?」 「ああ。会社の同僚の中国の人がね、くれた」 「種。庭中にちらかったね」 「来年の春は毎日、八宝菜になっちゃうな」 まあ、それもいい。 「お母さんの八宝菜みたいにおいしいかな」 「どうだろうね。いい匂いだけど」 「あの。お父さん」 「ん?」 「私、麻婆豆腐が食べたい」 「お母さんが作ったみたいなのか」 「うん」 悲しい気持ちが繰り返すようで今までお父さんに言えなかった。 「作るよ。多分作れる。お母さん程おいしくはないだろうけどね」 「手伝う」 「うん。晩飯は、八宝菜と麻婆豆腐だな」 昔みたいな組み合わせ。 今晩はお母さんの事をお父さんと沢山話したいな。
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