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存在しない欲
人間の持つ三大欲求。食欲、睡眠欲、性欲。
だが自分には本来あるべき筈の性欲が存在しない。
存在しない所ではなく、嫌悪感すら覚えてしまう程だ。童貞だと馬鹿にされようが、周囲の人間に好奇な目で見られようが構わない。性への関わりが無ければ寧ろその方がずっと良い。
精神神経科と大きく掲げられたその入り口に入り、診察券を見せるといつもの看護師が今日は直ぐに呼ばれると前の席に案内をしてくれた。その言葉通り病院で一区切りされた空間に直ぐにアナウンスが流れる。
「宮野乃愛さん、診察室二番へどうぞ」
宮野乃愛二十一歳、北海道の国公立大学H大学の医学部に通う大学三年生だ。
医学部で医療について学びながらも、こうして病院に通っているのはある意味矛盾しているのかもしれない。だが、今の自分には精神神経科は欠かせない存在なのだ。
アナウンスの声に導かれるように宮野は診察室のドアをノックした。失礼しますと言い目の前に座る主治医と対面するように座る。おおらかな雰囲気の医師が今日は顔色良いねと呟くように言い、いつも通りの宮野の診察が始まった。
「体調は?」
「少しだるさはありますが大学は続けて行っているので問題ないです。」
「薬は続けて飲んでる?」
「欠かさず飲んでます」
診察というよりは近状報告と言った方が正しいかもしれない。体調と薬に関していつもの様に主治医に聞かれた為、宮野は毎月の定型文となっている返事を主治医の膝を見ながら表情を変えずに言った。
すると主治医はそんな自分に対して笑みを浮かべながら、休みの日は何しているか、大学は楽しいかと聞いてくる。この質問に対して主治医に何か意図はあるのかさっぱり分からないが、宮野は目を伏せながら一応答えた。休みは適当に過ごしていて、学校は楽しいですと。
主治医とこうして対面して診察を行っている時に私生活の事を聞かれると、本当の事を上手く伝えられなくなってしまう。思わず唸り声を上げたくなる気持ちを抑えながら診察室の椅子に丸くなっていると、主治医は何かをパソコンのカルテに打ち込んでいた。
「メンタルの方はどう?」
「……大丈夫です」
少し言葉に詰まってしまったのは大丈夫とは言い切れないからだ。だがこれに関しては当然だとも思うし、主治医も本当は自分が大丈夫と断言出来る精神状態では無い事に気が付いているだろう。精神科に通っていてメンタルに問題が無い患者など居ないのだから。
心に負傷を負っているからこそ宮野は精神科にこうして毎月通っているのだ。
そんな自分の気持ちを主治医は汲み取っているのか、それとも刺激にならないようにスルーしたのかは分からない。いつもの様に笑顔で『じゃあまた一ヶ月分の薬を出しておきます』と告げた。
朝、昼、夜、寝る前と四回飲む薬とは別に頓服も出しておくから辛かったらそれで対処しよう。そう主治医が言う診察の終わり方はここ数年で全く変わらない。つまり良い意味でも悪い意味でも自分の心身は変わらないという事だ。
主治医から処方箋と予約表がプリントされるバーコードが記載されている基本表を受け取り、宮野は主治医に大きく頭を下げ、診察室の椅子からゆっくりと立ち上がる。
「宮野くん、自分に素直になれる時が来たらその時は素直になってね」
去り際に主治医が言った言葉に過剰に体が反応した。素直に、つまり性欲が出たらそれは悪い事ではないと伝えたいのだろう。そんな事は絶対に無いと思います。そう言いたかったが言葉には出来ずに、分かりましたとだけ言って診察室を後にした。
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