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「宮野さん……天才です!本当に!」
「そんなに美味しい?」
とんかつ用のロース肉に小麦粉卵パン粉をまぶし、二度揚げをしてサクッという食感に仕上げた。
和風の出汁で長ネギと玉ねぎと一緒に煮込みながらも食感を失わないように卵でとじた。大きなどんぶりに白米をよそい、上にとじたカツを乗せたシンプルなカツ丼だが東雲は美味い美味いと笑顔で食べている。
長ネギと玉ねぎを切ったついでに簡単に味噌汁も作ったが、それも好評だった。それに祖母の紹介で商店街から取り寄せている味噌は絶品だ。
自分は作るのは得意だがそこまで食べる訳では無いので、東雲の半分程度の量を口にした。ため息混じりに宮野さんと出会えて良かったと言う東雲に宮野も笑顔になる。
「宮野さん、おかわりお願いします」
「どの位食べる?」
「あるだけ全部食べます」
大学でスポーツをやっているだけあり、食べる量は想像を超えていた。三人分程の量を作ったが、あっという間に東雲の胃袋に消えていく。
だが大食いだが綺麗に口に運ぶ姿に、きっと育ちが良いんだろうなあと宮野は食べながら東雲の行儀の良さに感動した。米粒ひとつ残さず完食し、ご馳走様ですと言った東雲に喜んで貰えて良かった宮野は笑顔で言う。
「あれ?七瀬からLINEだ」
「またですか?ていうか絶対俺七瀬さんに信用されていませんよね」
「何してる?って来ただけだよ。カツ丼作って食べてたよって送るね」
LINEを送ると無理はしてないかとすぐに返事が来たため、楽しんでると送ると良かったと返ってくる。安心して仕事出来る。働いてくると言う七瀬にありがとうと返すと、東雲は少し口を尖らせた。
「七瀬さんに宮野さんとの時間邪魔された」
「七瀬は面倒見がいいんだよ。昔からこんな感じ」
「ていうか普通に宮野さんとこんなに距離が近いの羨ましいです」
「今は物理的には東雲くんとの方が距離近いよ?」
何故そんなに距離感を気にするのかは分からないが、今は東雲との距離が近いからと宮野は東雲の頭を撫でた。すると少し顔を赤らめた東雲が可愛いですと照れくさそうに笑いながら言う。
今まで可愛いなんて沢山の人間に言われてきたが、東雲は媚びたりする訳ではなく息をするように褒める。だからこそ照れてしまう。
そんな気持ちを切り替えるように、宮野は東雲にお願いがあるんだけどと切り出した。
「柔軟性見せて貰ってもいい?」
「勿論ですよ」
手術経験があるのにも関わらず、今も現役でバスケをやっている東雲の体に一人の医学部生として興味があった。毎日欠かさずストレッチをしているのだろう。自分から見ても完璧に仕上がっている体だ。
「手術後に痛んだりしなかった?」
「リハビリ続けてるんで特に痛みは感じないですね。あ、ストレッチポール今日から始めようかなって思ってました。」
「うん。あと東雲くんここの筋肉解してあげなきゃだめ」
骨を辿るように触った際に気になった疲労している筋肉をぐりっと抉るように押すと、痛いと東雲が顔を歪める。
それならばこうしたら解れるからとストレッチの仕方を体を使って教えた。素直に従い筋肉を伸ばす東雲と東雲についている筋肉に宮野のテンションがまた上がっていく。
「ごめん、医学書ちょっと読ませて。怪我したの膝だよね?」
「はい。っていうか宮野さん本当に勉強好きなんですね。七瀬さんより凄い人初めて見ましたよ。」
学ぶ事に関しては本当に人と比べると病的に好きな為、否定はしないが肯定もしない。それよりも今は東雲の体つきに興味津々だった。
神経や筋肉の図解がある医学書を東雲は見えないように持ちながら、宮野は東雲の足を優しく触る。一般人は全く気にならないだろうが、医学を学ぶ身として触ると分かる違和感が若干あった。
「ここの筋肉と神経痛めたんだね」
「はい。ていうか俺が触っても何も分からないのに何で分かるんですか?」
「筋肉の張り具合とか、あとは……勘?」
「俺宮野さんが専属のトレーナーだったらもっと頑張れるのになあ」
体を触っても嫌がる素振りを全く見せない東雲に、思わず前のめりになっていた。そして東雲が当たり前のように言った専属のトレーナーという言葉に宮野は驚き、図解付きの医学書を手から零れるように落としてしまう。
七瀬も蘭も無理だと言っていた筋肉の実際の写真が載っているページが見開く形になり、慌てて拾い医学書を閉じた。
「東雲くん、ごめんね!せっかくご飯美味しく食べてくれたのに……」
東雲の体に夢中になってしまい東雲への気遣いが出来なかった事を謝罪した。こんなグロテスクだと周りにドン引きされるような物を見られては、東雲のトラウマになってしまうかもしれない。
学ぶ事に前のめりになり過ぎる余りに東雲の立場を考えていなかった。折角あんなに美味しいと言って食べてくれたカツ丼も今では逆に気持ち悪いと思うかもしれない。
宮野は肩を落とし若干涙を浮かべながら医学書をぎゅっと抱きしめる。だが、東雲の反応は意外なものだった。
「なんか、想像していたより全然大丈夫でした」
「え?」
「自分自身が怪我した時の方が余程やばかったです。そんなに気を遣わなきゃいけないものですかね?苦手な人の前では読まなくても、俺の前では普通に見てて大丈夫ですよ?」
なんで皆揃ってダメなんですかねと、腕を組む東雲に宮野は驚いた。寧ろ宮野さんなら外科医とかになっても全然躊躇わなさそうですねと言われてしまい、戸惑いながらも余裕でメスを入れることなら出来ると言うと、東雲は凄いですと満面の笑顔を見せてくれた。
こんな事を言ったら周りは、サイコパスだとか感覚がズレていると自分に言う。医学部は学部が学部なだけあっておかしな奴が多いと言われがちなのにも関わらず、東雲は日本の未来は明るいですねと医学書を抱き締める自分に笑顔で真っ直ぐ言ってくれた。
「宮野さん、今日はありがとうございました」
「え?」
「夜から大学で練習あるんですよ。そろそろ帰っておきます。めちゃくちゃカツ丼美味しかったんで、宮野さんのカツ丼で頑張ってきます!」
もうそんなに時間が経っていた事に驚いた。外を見ると若干暗くなっている為相当の時間東雲と二人で過ごしていたのだろう。カツ丼を食べている時間よりも自分が体を触っている時間の方が圧倒的に長かった気がするが。
チョコレート食べてくださいねと言う東雲に宮野は笑顔で頷き、玄関まで見送ろうとすると、東雲が一旦動きを止める。
「宮野さんって七瀬さんとどれ位の頻度でLINEしてますか?」
「ほとんど毎日かな?なんで?」
「じゃあ、俺も毎日LINEします」
「う、うん。返せる時返すね。ありがとう」
毎日話す事などあるものなのかという疑問は抱いたが、東雲の優しい声色に医学書を抱き締めたまま頷いた。
だが嬉しそうな顔で東雲が靴を履く。これから練習に励むのかと東雲の大きな背中を見ていると、東雲がもう一度動きを止めた。
「宮野さん、これからは宮野さんの事乃愛さんって呼んでいいですか?」
「え?」
「俺の事は東雲くんじゃなくて、隼人って呼んでください」
玄関を開ければ後は帰るだけの状態で、眉を八の字にしながら顔を覗き込むように言われた。東雲からの提案に宮野は何故か考え込まなくてもいい所で頭をフル回転させてしまう。
宮野さんではなく乃愛さん。
東雲くんではなく隼人───
「隼人……くん。また来てね」
「はい!乃愛さん!今日も家帰ったらLINEしますね!本当にありがとうございました!」
隼人とは呼べずに隼人くんと呼ぶと一瞬頭を撫でられた。大きな手が優しくだが自分の頭を支えるように撫でた為、宮野は骨格がゴツゴツとしたスポーツをやっている男の人の手だなとぼんやりと考える。するとそんな自分を見て東雲は何かを思いついた顔をした。
「今度ご飯行きません?乃愛さん好きな物とかありますか?」
「うん。甘いものが好きだよ」
「俺めっちゃ調べます!七瀬が悔しくなるくらいにいい所探します。乃愛さんと俺は感覚似てるので」
「なんで七瀬が出てくるの?」
二人で行くのだから七瀬は全く関係無いだろう。何を言い出すんだと笑ってしまう宮野に対し、東雲は少し微笑みながら俺の気持ちですと宮野と目線を合わせた。
そんなに自分とご飯に行く事を楽しみにしてくれるなんてと宮野は感激をし、差し出された東雲の手に握手をすると東雲が無造作にセットされた髪を若干掻き回した。
「次に会う時を楽しみに頑張ります。乃愛さんと今日話して自分自身も成長しなきゃと思ったんで。それにこのままじゃいつまで経っても七瀬さんを超えれないんで」
「え?七瀬を超える?七瀬は七瀬、隼人くんは隼人くんじゃない?」
「あー………俺に今必要なのは努力ですね」
一瞬苦笑いをした後、東雲はお邪魔しましたと満面の笑顔で宮野の自宅を後にした。一人になり、貰ったチョコレートを開けてみると食べたいと思っていた期間限定のチョコレートが六つ入っていた。
今日はこれを食べながらはちみつ紅茶を飲み、先程まで見ていた医学書に触れようと電子ポットでお湯を沸かす。すると宮野のスマホに通話がかかってきた。
まさか東雲だろうかと一瞬思ったが、そんな訳無いだろうと自分の突飛した発想に微苦笑し発信源を見てみると相手は七瀬だった。
七瀬という文字だけでこれ以上無いくらいの安心感が体を包み込む。電気ポットのお湯をマグカップに注ぎながら宮野は七瀬からの通話に出る。
「乃愛、隼人からLINEきた。楽しかったみたいで良かった」
「うん。隼人くんが毎日LINEしてくれるって」
「まじかよ。ていうか乃愛と隼人相性良いんだな。」
「あと、ご飯も一緒に行くことになったよ」
「意外だな。年下っていうのがいいのか?」
「それもあるかも。あと隼人くんと感性が似てる所があるからだと思う」
そう言うと七瀬は良かったと嬉しそうに、そして安心したように言った。改めてありがとうと言うと、じゃあ今度俺の為に何かご飯作ってと言われる。そんな事頼まれるまでも無い。
自分の料理でよければ、七瀬の為にならば、何時だって何だって作ると言うと七瀬は満足そうに笑い仕事に戻ると言った。
通話が切れ、自分を肯定してくれた隼人という新しく自分と関わる人間に嬉しく思った。医学書を開き、iPadを取り出し明日に向けて予習を兼ねてノートを纏める作業につく。
はちみつ紅茶の甘さと、それ以上に甘く感じる季節ごとに違うフレーバーのチョコレートに、宮野乃愛の心は穏やかに満足感で溢れていた。
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