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東雲と約束した土曜日の十五時半。
約束の時間より少し早めに着き、駅前の近くにある紅茶の専門店に宮野は一人で買い物をしていた。祖母の紹介もあり当たり前のように通っているが、こういった専門店で買い物を出来ることなど中々ない。
店を経営している老夫婦とはもう顔なじみだ。店内に入ると自分を可愛がってくれていた老夫婦か、同時に乃愛くんいらっしゃいと言われる。
店主には自分が目的としていた少し高めの紅茶のティーパックを取り置きして貰っていた。なかなか市場に出回らない物の為、絶対に飲んでみたいと思っていたのだ。
「本当に乃愛くんは可愛いわね。おまけにいつも買ってくれてる茶葉を少し入れとくね。あとこのお菓子も!紅茶と一緒に食べると美味しいから」
「ありがとうございます。嬉しいです!また来ます」
紅茶を受け取るとふわりと香った茶葉の香りに宮野は顔を綻ばせ、中に入っている小さな焼き菓子のセットに目を輝かせながら店主にお礼を言った。
老夫婦の孫は道外に住んでいるが自分と同い年で、もう孫のようなものだと今でも随分と可愛がって貰っている。この紙袋も季節によって変わったり老夫婦が手書きでメッセージを書いてくれる為中々捨てられない。
いつもH大学に弁当を持っていく時に保冷バッグを入れる為の袋として使っているが、男子生徒から随分可愛い紙袋ばかりいつも持ってるよなと少しからかわれてしまった事があった。
そういう時宮野は可愛いでしょ?と少し無理をして明るく振る舞う。だが男子生徒も女子生徒も可愛いと口を揃えて言ってくれる為良しとしようと思い出しながら溜め息をついた。
意外とあっさり買い物が終わってしまった。待ち合わせの時間よりも三十分程早いが、先に待っていようと狸小路の人通りが少ない所に立った。この時期は冷え込むからと厚手のニットを着てきたが正解だった。
もこもこした素材の、大きめのサイズのニットが可愛いなと少し高かったがユニセックスのブランドの物を買ってしまったのだ。東雲に『もう着いちゃった。人多いからこの場所で待ってるね』と位置情報と一緒にメッセージを送る。
そして持ってきていた自分のお気に入りのリップグロスを唇に乗せ、頬にチークを指でふんわりと塗って仕上げのフェイスパウダーを軽く叩く。
こんな時間に先に来ておいてなんだが、東雲はまだかな?とソワソワしてしまう。
どんなお店に行けるのかな?
二人でどういう時間を過ごせるのかな?
あわよくば可愛いと言ってくれないかな等と一人でふわふわとした気持ちで居た時だった。
「ねえ、何してるの?」
「え?」
「お買い物してたの?寒くない?」
「えっと……」
「めちゃくちゃ可愛いなあと思って。歳いくつ?」
嫌に愛想の良いサングラスを掛けた男性に声をかけられた。当たり前のように自分の隣に立ち、少し厭らしい笑みを浮かべる男性に、待っている男性はこんな人では無いのにと悲しくなった。
だがこの手のナンパには生憎宮野はもう慣れている。どうせ自分の事を女子大学生だとでも思っているのだろう。
こういう時は此方は全くナンパは相手しないという姿勢を見せる事が一番だ。無視するように目線をスマホに落とすと、男は自分の顔を覗き込むように体を屈ませた。
「彼氏いるの?ていうか彼氏待ち?こんな所で待たせるなんて彼氏酷いね」
「待っているのは友達です。それに自分男なんで、他当たって下さい」
一人で勝手に話を進めた上に東雲の事を悪く言うような言い方が気に食わなかった。東雲は彼氏ではなく友達なのだが、酷い男の人なんかではない。
若干男にイライラしながら言うと男は少し驚いた顔をする。だが、その後すぐに先程も浮かべていたニヤニヤと厭らしい笑みを口元に浮かべ、ゴツゴツとしたアクセサリーが沢山付いた手で自分の肩を掴んだ。
「男の子?今流行りのジェンダーレス男子って奴?俺別に構わないけど。君すっごい可愛いから」
「さ、触らないで」
「男同士なら別にいいじゃん。ねえ、連絡先だけ交換しよ?」
「やめて!」
急に自分の顔にキスをするかのように顔を近づけられ、驚きから男を突き飛ばした。その瞬間肩に下げていた鞄から鏡が零れ落ち、パリンと音を立てて地面で真っ二つに割れてしまった。
この鏡はいつも病院帰りに七瀬と行っている雑貨屋で買った、メイク直しの時に使うお気に入りの鏡だ。大切にしていたものをこんな形で壊されてしまったと、思わず男を思い切り睨み付けてしまう。
だが男は自分の怒っている顔を見てさらにだらしない顔をした後、地面に落ちている鏡を見て笑った
「ごめんね?代わりの鏡買ってあげるから、連絡先と名前だけ教えて?」
「いらないです。自分で買うのでもう何処かに行って下さい」
「……なんかこっちが下出に出てたら強気になるね。可愛いから許してるけど、力でいったら君と俺はどっちが上かな〜?」
鏡を割った原因になった男の買った鏡など絶対に使いたくない。そう思って強気な態度を取ったのだがそれが男にとっては気に食わなかったようだ。手首を思い切り握られ、アクセサリーで腕が圧迫されて強い痛みを覚える。
こんなにしつこく迫ってくるナンパをされた事は初めてだ。腕を振り払おうとしてみるが男はまるでビクともしない。
「痛いよね?QRコード見せてくれたら直ぐに離すから」
「いや……嫌だ……」
「ただの話し相手になるだけなんだからそろそろ────」
わざと手首にアクセサリーを食い込ませてくる男に恐怖を感じ、宮野は背中を丸めながら涙を浮かべて首を横に振った。ただの話し相手になるなんて絶対嘘に決まっている。
こんな人にLINEのアカウントを教えたら何をされるか分かった物ではない。もしかしてこのままこの男に自分は犯されてしまうのではと思う程の恐怖を覚えた瞬間。突然男が後ろによろめいた。宮野はスマホと紅茶の入った紙袋を抱き締めながらそっと顔を上げる。
「この人に何か用ですか?」
「は、隼人……」
東雲だ。いつもの優しいトーンではなく冷たい言い方で言い放ち、男と自分の間に割り込むように立った。肩を抱き締められ、そのまま体を引き寄せられる。
隼人…と思わず情けない声が出てしまったが、東雲は自分の事を見る事なく厳しい視線を男に向けながら宮野の髪を撫でた。男からしてみればあともう一歩という時に現れた体の大きな東雲が気に食わなかったらしい。
人格が変わったかのように東雲の胸元を掴んだが、東雲はビクともせずにその手を振り払った。
「何だよ。邪魔すんなよ。どっか行け」
「邪魔なのはそっちじゃないですか。この人に近づかないでくれません?」
「男が男に連絡先聞いて何が悪いんだよ」
「じゃあ俺と連絡先交換します?話し相手になりますよ」
怒鳴る訳でも無く冷静に対処する東雲の手を宮野は握りしめた。東雲は男が強く言葉を発しても冷静に対応をする。男が男に連絡先を聞きたいなら自分がと、QRコードを表示しながら宮野の体をしっかりと抱き締める。
そんな東雲に宮野は縋るように抱き着くと、漸く男は諦めたのか舌打ちをし最後にうぜえと一言言って去っていった。
手首を強く握られた事による痛みと、男に無理矢理連絡先を聞き出そうとされた事による恐怖。そして足元で割れている鏡に悲しさから宮野は体を震わせていると、完全に男が去って行った瞬間に東雲に手首を優しく握られ頬に手を添えられた。
「乃愛さんごめんなさい!俺が早くに来てたらこんな事になりませんでしたよね。本当に申し訳ないです!」
「隼人……怖かったよ……」
先程男を相手していた東雲とは全く違う、自分がよく知るいつも通りの東雲に安心感を覚える。それに東雲にもあんな一面があったのかと驚いた。
三十分も早く来ていた自分が悪いのだから、東雲は何も悪くない。だが物凄く怖かったと東雲の胸板に手を添えると、東雲は直ぐに手首から手を離し自分を安心させるように抱き締めてくれた。
自分よりも遥かに大きな男性でありながら、優しい心を持つ東雲に抱き締められた事により安心感が芽生える。
「隼人……ありがとう」
「乃愛さんの手首握ってるの見て焦りました。怪我とか痛いところないですか?」
「怪我はしてないし、痛みも直ぐに治るから大丈夫」
怖かったとはいえ余りベタベタと東雲に甘えていてはいけないと、自分から東雲と離れる。すると様子を伺っていた周囲の人間の視線が逸れた。
今の時代助けてくれる人なんか居ない為、本当にこのタイミングで東雲が来てくれて良かった。お気に入りの鏡は割れてしまったがまた別のものを買えばいい。
宮野は東雲の事をそっと見上げると、東雲が優しい笑顔を見せながら自分の頭を優しく撫でる。
「あの……ナンパした男は絶対許せないですけど、乃愛さんに隼人って呼び捨てで呼ばれたのが嬉しくて……」
「ご、ごめんね!」
「いえ、これからも隼人って呼んでください!それに今日の乃愛さんもめちゃくちゃ可愛いんで……俺から離れないで下さいね?」
同じ可愛いという言葉も、言う人間によってここまで変わるのかと驚いた。優しくリードするように腰に手を当てられ思わず照れてしまう。
普段から可愛いと言われることは山ほどあるが、東雲のように何の不純物も入っていない真っ直ぐな言い方はなかなかされない。
初めて見た時から思っていたが、東雲は顔も格好いいし背も高い。少し不純な気持ちが出ても可笑しくない年頃の男子大学生なのにも関わらず、自分に対して可愛いと言う時は優しくて真っ直ぐだ。
「隼人、離れないように腕掴んでいい?」
「え、折角なら手繋ぎましょうよ」
「流石にそれは……」
「あ!ごめんなさい!調子に乗りました。腕でも何処でも掴んでて下さい。」
東雲らしさが戻り、漸くナンパされた事が過去の事になった。自分が持っていた紙袋を見て、東雲がするりと少し重みのある紙袋を手にしてくれた。
荷物を持ってくれるなんて事を男性にサラリとされた事は生まれて初めてだ。あんな事があった後なのだから良いだろうと紙袋を持ってもらい、東雲の腕を掴みながら狸小路の中を歩き出す。
男同士で手を繋ぐなんて事をしたら悪目立ちしてしまうだろうからこうして腕を掴んでいるのだが、東雲は腕の筋肉もしっかりと付いているなと、この状況でも医学的に東雲を見てしまった。
「やっばいです。乃愛さんと俺デートしてるじゃないですか。何気腕掴まれるのめちゃくちゃ嬉しいです」
「デートなの?少し大袈裟じゃない?」
「だって今日乃愛さんと一緒に過ごせるのをモチベに頑張ってたので!それに二人きりで出かけるのはデートじゃないですか?」
「うーん……分からないけど、隼人がそれでいいならいいよ」
自分はデートなどした事ない上に恋愛とは無縁の為、デートの基準が分からない。だが、嬉しそうに笑う東雲を見ていると好きに言ってくれて構わないという気に自然となる。
隣で乃愛さん今日も可愛い。乃愛さんとデートだとはしゃぐ東雲に思わず笑ってしまう。七瀬が言っていたように自分は年下と相性がいいのだろうか?クスクスと笑いながら東雲の腕にそっと手を添えながら二人で歩く。
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