初めての気持ち

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「乃愛、このポトフめっちゃ美味い」 「ありがとう。ちょっと良いベーコン使ったの」 「おかわりしていい?」 「全然いいよ。」 根菜をメインに作ったポトフは、一晩寝かせる事により野菜に旨みが染み込んでいて我ながら美味しく出来たと思った。七瀬と静かに過ごす朝は心地よい。 今日も冷え込むからと宮野は七瀬に言われてまだ袋から出していないコートを取り出したのだ。いつも服を買っているユニセックスのブランドのもこもこのニットと合わせたら可愛いだろうなと見つめていると、スマホの通知音が鳴った。 毎朝恒例の東雲からのLINEかと思い嬉々としてスマホを手にするが、来ていたのは東雲からのLINEでは無かった。 「小松教授からショートメールだ」 医学部の教授である小松からのメッセージに宮野は困惑する。小松とはLINEは交換していないが、電話番号は教えている為ショートメールで連絡が来たのだろう。 小松からの大学に居る時以外でのやり取りは全てタブレットで行っている。何か急ぎの要件なのかと、スマホを開き宮野は固まる事になった。 『この前の宮野くんのレポートを見たT大学の井上教授が、是非宮野くんと会いたいと言っている。宮野くんが嫌で無ければ是非そのレポートと宮野くんを自身のエッセイ本で紹介したいと私に連絡が来た。今日の研究が終わったら時間を作って欲しい。確実に宮野くんの将来の為にもなる。私が間に入るから、よろしく頼んだよ』 以前自分の纏めたレポートを別の大学の教授に見せたと言っていたが、まさかその井上教授がそんなにも自分を評価してくれるとは思ってもいなかった。 想像もしていなかった事が起こっている為宮野は体を硬直させて黙っていると、七瀬が自分の様子を見て心配そうにしていた。七瀬にならば良いだろうと、そのままメッセージを見せる。 「将来について悩んだ昨日の今日でこのメッセージは、乃愛にとって嬉しいんじゃないか?」 「嬉しいよ。でも、この教授本当に凄い人なんだよ?なんで自分のなんかに…それに何を話したらいいのかな……」 「凄い教授が出すエッセイ本に紹介だろ?乃愛の実力でしかないだろ。自信持って会いに行ってこればいい」 前向きに背中を押してくれる七瀬とは違い、宮野の心はざわめいていた。何故自分なんかがこんな凄い人に評価をされるんだ。自分はただ楽しんで学びたい事を学び、自分の考えに基づき資料を見ながらレポートを書いただけだ。卒論や世に出すような物では無い。 思わず手元が止まる。美味しいと思っていたフレンチトーストやポトフも、食べる気が無くなってしまった。自分はプレッシャーに弱く、ストレスに過敏だ。主治医からはもっと楽に構えて良いと言われているが、それが出来たら苦労はしない。 「乃愛、大丈夫か?」 「あんまり……自分でも情けないと思うけど…怖くて……」 そう呟くと七瀬が優しく笑う。自分の隣りに座り、大丈夫だと言い聞かせるように背中を撫でた。トントンと一定のリズムで指で背中を撫でられる。それがあまりにも心地よくて目に涙が浮かんだ。 決めなくてはいけない将来に関わる話を今日しなくてはいけない。その事実だけで宮野をプレッシャーでがんじがらめにするのには充分過ぎた。周りの生徒のように計画を立てていた訳ではない話な上に、自分は医学部の三年だ。 まだまだ学び足りない事が多い年でどうしてこんなにも大きな話が急に舞い込んで来たのかと、完全に俯いてしまった。 七瀬はその間もずっと言い聞かせるように大丈夫だからと繰り返していた。肩を抱き寄せられたが、力が入らずに人形のようにそのまま七瀬に寄りかかる形になってしまう。ふらついた身体を七瀬は慌てて受け止める。 「乃愛、会って話すだけだ。それにこういうチャンスは早めに話が来た方が絶対に良い。卒業間近になって来るより余裕を持って将来の事を考えられるだろ?」 「……うん」 「乃愛の将来の為にもタイミング的にも凄くいいと俺は思う。ただ、俺はその乃愛が感じるプレッシャーは理解してやれない。そういうプレッシャーを感じられる人間は本当に限られているんだよ。ひとつまみの努力と才能が相まった人間だけだ。その一人が乃愛なんだよ」 いつもの七瀬と比べると優しい口調で、説得をさせるように目を見ながら話してくれた。そのお陰で、ふらついた体を自分で支える事が出来るようになった。 七瀬の言う正論に昔からずっと自分は救われている。確かに何も決まらずに大学に居る事を考えると、今少しでも将来の道筋が見えた方が確実にいいだろう。 七瀬にお礼を言い、残っていたフレンチトーストとポトフに手をつける。そんな自分を見て、七瀬も定位置に戻り食事を続けた。二人で無言で食べ続けているとスマホの通知音が鳴る。また大学の教授かと思ったが、そうではなかった。 「隼人だ……」 溢れるように東雲の名前が出てきた。LINEを開くと、いつも通り元気のある東雲からのメッセージが届いていた。 『乃愛さんおはようございます!俺今日ランニングの前に、乃愛さんの教えてくれたストレッチやってこの前選んで貰ったプロテイン飲みました。今日一日が乃愛さんで始まってて俺は今日も頑張れます!』 普段なら笑顔で返す内容だが、状況が状況だ。返す言葉が見当たらない。既読もつけてしまったし何か返そうと頭をフル回転させるが、本当に何も思いつかない。一連の流れを見ていた七瀬が口を開く。 「無理に返さなくていいんじゃね?LINEなんて強制的に送る物ではないだろ。気持ち落ち着いてから返せばいい。それに二ヶ月以上毎日LINE当たり前の方が珍しいと俺は思う。」 「隼人、怒らないかな?」 「あいつが乃愛に怒ると思うか?無理して返すLINEより、落ち着いてから返ってきたLINEの方が俺が隼人の立場だったら後者の方が断然に嬉しい」 「そ、そうだよね。隼人がLINE一つで怒る訳ないよね。」 一旦保留にしようとLINEを閉じると、食べ終わった食器を七瀬が台所に持っていった。今朝、七瀬が居なかったら自分はどうなっていたのだろうと思うと少し恐怖を感じた。 そろそろ大学向かおうか、と上着を羽織る七瀬の手を思わず握ってしまった。何度も何度も自分を救ってくれた綺麗な骨格の手を握ると、七瀬が当たり前のように握り返してくれる。 「夜遅くなるかもしれないなら、乃愛はマフラーも持った方がいいかもな。迎えに行ってやりたいんだけど今日はバイトがあるから、送るのだけで悪いな」 「送ってくれるだけで全然嬉しい。そうだね、コートと一緒にマフラー出しておいてよかった」 自分も食器を台所に置き、作り置きしていた惣菜で昨日のうちに作った二人分のお弁当を冷蔵庫から取り出し、七瀬に手渡す。一瞬驚いた顔をした七瀬にお礼を言われ、なんて事ないと返しながら祖母がプレゼントしてくれたコートを羽織る。 体にピッタリのコートは着ていて本当に暖かい。このコートにふわふわのマフラーなんてまた女の子に間違われるのではと思ったが、可愛いから良いかとリュックにいつもの荷物にプラスマフラーを入れる。 いつも通りの七瀬との朝を迎えたのにも関わらず、今日これから自分の人生が左右される。節操感に追われながらの一日になるだろうが、七瀬の言う通りいずれは絶対に来る事なのだと自分に言い聞かせた。 七瀬の運転に揺られながら、東雲のLINEを見ては胸がチクリと痛む。この痛みは罪悪感なのかすら分からない。東雲には申し訳ないが、今優先すべき事は大学だ。医学部に近い入り口に七瀬が一旦車を停める。 「頑張ってこいよ。乃愛なら絶対大丈夫だから」 「ありがとう。行ってくるね」 車を降りる際に言われた七瀬からのエールに背中を押された。いつも通り医学部生が溢れる校舎に入ると、おはようございますと何人かに挨拶される。 頑張ろう。H大に入ろうと七瀬と共に頑張った過去と、それを後押ししてくれた祖母を思い出し気合いを入れて研究着に着替えた。その時に自宅から持ってきていた東雲が好きと言ってくれたリップを手に取った。 東雲ならば絶対分かってくれるから。 乃愛さん凄いですと背中を押してくれるから。 今日ばかりは可愛くなる為というよりも、お守り代わりにそのリップを唇に乗せたのだ。
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