初めての気持ち

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思っていた以上に研究が長引いた。教授の事に頭が引っ張られると思っていたが、今日の研究が思わぬ結果を出した為、頭は研究の事でいっぱいになっていた。逆にそれが助かった。 研究着から私服に着替え、ずっと朝から缶詰状態だった研究室から出ると、小松が立っていた。こんな所に教授を待たせてしまっていたと慌てると、余裕のある性格の小松は優しい笑い声を上げながら自分の事を見た。 「宮野くん。突然の連絡になって申し訳なかった。驚いただろう。だが、今回宮野くんに紹介する井上教授は確かに凄い才能と技術の持ち主だが、とてもおおらかな人だ。安心して話して欲しい」 「ありがとうございます」 「教授室に行こう。早く宮野くんを紹介したい」 教授と二人で暗くなった大学の廊下を歩き、教授室に向かう。あっという間に着いた教授室に深呼吸をすると、教授がタイミングを見計らいドアを開けた。 「井上教授、遅くなって申し訳ない」 「とんでもない。今日の今日で時間を取って貰ったんだ。それに将来有望な若人を待ちながら飲むコーヒーは美味かった。宮野乃愛くんだね?初めまして」 何度も新聞やテレビで見ていた、自分とは圧倒的にレベルの高い教授が自分に頭を下げる。そして、流れるように名刺を渡され両手でしっかりとそれを受け取った。 「宮野くん。早速だけど本当に君のレポートは素晴らしかった。何度も読ませてもらったよ。こんなにも有望な人材はなかなか居ない。他の教授や大学に譲りたくないと思ってね。まだ宮野くんが三年だと知って逆に安心したよ」 「と、とんでもないです!」 「井上教授に過去の宮野くんの提出したレポートを見せたんだよ。そしたら井上教授が大喜びだ」 机に置かれた自分のレポート達を、井上が手に取り笑顔で目を通す。ありがとうございますとおずおずと頭を下げる宮野に、井上は笑ってそんなに緊張しなくていいと笑った。 小松が言っていたように井上は本当におおらかな性格なんだなと、宮野は尊敬に値する井上と小松を交互に見る。 「私も宮野くんは優秀だと評価していたが、まさか井上教授がこんな事言い出すなんて想像もしていなかったんだよ」 「久しぶりに自分の中の欲が刺激された。まだまだやれると宮野くんのレポートを見て思ったんだよ。宮野くん。早速本題に入るけどいいかい?」 「…………はい」 本題。それは自分が向き合わなければならない将来の事と実際に向き合う事だ。二人の教授の前で手に汗握る思いで座りながら握りこぶしを作ると井上が口を開く。 「三年の生徒に言うのは異例の事だが、君の可能性を確信した。宮野くん、君は外科医志望なのかい?」 「それがまだ……自分でも自分が何を出来るのか分からなくて……」 「そうか。なら良かった」 「え?」 外科医を目指し医学部に入学した筈の自分が、外科医になる事を躊躇っている事を何故良かったと言うのか。 コーヒーを片手に笑い合う教授達に一体何を言われるのかと身構えると、隣りに座る自分の教授が自分の目を見てはっきりと言った。 「宮野くんには医学部の保健学科に異動して貰い、四年で大学を卒業すると同時にH大学の大学院に進級して欲しい」 「え?」 思ってもいなかった事を言われ、思わず素が出てしまった。慌てて謝罪するが無理もないと二人は笑う。そして井上が再び話しだした 「宮野くんなら幾らでも可能性がある。大学院に進級して貰って、私の資料を元に研究をして欲しい。宮野くんは既に准看護師の資格を取るカリキュラムを取得しているし、理学療法作業療法に関わる知識もある。そんな宮野くんと私が手を取り医学の研究をしたら、自分で言うのも烏滸がましいが未来は明るい」 「宮野くんが余り体調が優れないからこそ早めに提案させて貰った。勿論即答は求めていない。だが、身体を無理させずとも前向きに考えて欲しい」 周りが就職していく中で、てっきり自分も就職先を見つけなくてはと思っていた。だが、一つ自分に差し出された希望の光が見えた。 大学院。医学部の中でも更に選ばれた生徒しか進めない道だ。大学院に進むからにはレベルの高い研究を求められるのは分かっている。だが、研究やレポートや論文は自分の唯一の特技でもある。それを活かすことが出来るような提案に、思わず頷きそうになった。 井上はこれから直ぐに都内の大学に帰らなくてはいけないらしく、大学院の進級についての書類を小松に渡すように言い、笑顔で自分の事を見た。 「考える時間をあげるから、大船に乗ったつもりで前向きに検討してくれ」 自分の手をがっしりと握り、宮野の今まで作成したレポートや論文のコピーを全て鞄に入れそのまま教授室を後にした。満足そうな小松と二人で頭を下げて井上を見送ると、小松が自分の背中を優しく撫でた。 思ってもみない話が大量に舞い込んできた事により困惑をしていると、小松はそんな自分に優しい笑顔を見せる。 「宮野くん、身体や心の調子が悪いのは分かる。大学院に行ってもそこはこちらでも配慮をする。井上教授には自分が説得する。それに井上教授なら絶対に分かってくれる事だ」 「そんな……良いんですか?」 「宮野くんは自分の才能とレベルの高さに気がついていないだけだ。それもこれから話していきたい。だが、今日はもう遅い。帰って焦らずじっくり考えて欲しい」 急に時間を取らせて悪かったと謝る教授に宮野はとんでもないと頭を下げ、今のこんがらがった状況を紐解くように考えながら、大学の廊下を歩いた。 一人になると少しずつ現実味が帯びてくる。大学院に自分が通い、もっとレベルの高い所に自分は行けるのだろうか?嬉しさと不安で気持ちが揺らぐ。 取り敢えず今日は家に帰ろうと、大学の外に出て驚いた。 「雪だ……」 白くフワフワとした雪がパラパラと降っていた。リュックからマフラーを取り出し、首に巻いて帰路に着く。 初雪は例年より早いと言っていたが実際に降ると一気に冬を実感する。自然の事に関しては人間がいくら頭を悩ませた所で左右する事は不可能だ。 もう夜は遅い。H大の医学部から一番近い入り口から大学を出てバスに乗って帰ろうとした時だった。 「乃愛さん!」 生徒数が疎らなH大の入り口に、東雲が笑顔で立っていた。思わぬ人物に宮野は驚き、慌てて東雲の元へ駆け寄る。 「隼人?え、なんで!?」 「乃愛さんが心配で来ちゃいました」 「心配って?」 「今日のLINE、絶対乃愛さんと盛り上がれると思って送ったんです。乃愛さんが既読つけても返事送れない何かがあったのかと思って、ちょっと寄ってみたんです」 宮野は東雲を見て一つの事実を確信した。東雲が言っている事は嘘だ。東雲の頬も手も真っ赤に赤くなっている。ちょっと寄った位でこんなに赤くなることは無い。 いつから? 自分をずっとここで待っていた? 絶対に会える保証なんて無いのに? LINEもせずにひたすらに自分の姿を待っていたというのだろうか。 宮野は東雲の大きな手をゆっくりと握る。芯まで冷えきった手に目に涙が浮かんだ。 「隼人は……なんで、ここまで…… してくれるの?」 仲がいいだとか毎日連絡しているだとか、相手を思う気持ちが出てくるが、東雲と自分はまだ出会って間も無い。 こんな大学でも立場がよく分からないような医学部生なんか尊敬しなくても、沢山周りに医学に携わる頼れる人は居る筈だ。 なのにどうしてこんな自分に東雲は優しくしてくれるのだろうか?涙声で東雲に問うと、東雲は自分の手を握り返し笑顔で言い放った。 「乃愛さんの為だからです」 顔は笑顔だが、視線は真っ直ぐに自分を捉えていた。 東雲の硬い関節を解くように手を絡めるように握ると、東雲が大きな手の平で自分の手を包み込んでくれる。 雪が降るこんなにも寒い夜なのに顔が熱い。身体が火照る。初めての体の反応にどうしていいのか分からない。 「乃愛さん?大丈夫ですか?」 「……うん。隼人が来てくれて、嬉しい」 「まじですか!?うわー!待ってて良かった!」 「やっぱり待ってたんだね」 そう言うと、東雲はしまったとバツの悪そうな顔をした。嘘を付けない素直で真っ直ぐな東雲に、緊張感が解け思わず笑ってしまう。 「スタバ行かない?温かい飲み物一緒に飲も?」 「え、行きます!乃愛さんとスタバデート最高です」 「やっぱりデートなんだね」 「はい。あ、乃愛さん。俺頭悪いんで学力では力になれないですけど、乃愛さんを支えたい気持ちは間違いなくあります。なので、辛かったりしんどかったらそのまま言ってください。全て受け止めます」 自分の横に並んで歩く東雲の言葉が、不安や圧力から解放してくれた。 何故東雲はこんなにも優しいのだろう。 何故こんなにも真っ直ぐな気持ちを自分に向けてくれるのだろう。 何故自分はあんなに揺らいでいた心が満たされているのだろう。 何故、こんなにも胸が高鳴りドクドクと脈を打つのだろう。 宮野は当たり前のように自分の手を絡めるように握りながら、歩幅を合わせて歩く東雲の事をそっと見上げた。すると背の高い東雲が自分の事を見て、満面の笑顔を見せながら冷たい手で頬を撫でる。 「コートもいつものリップもめちゃくちゃ似合ってます。乃愛さんはいつだって可愛いです」 少し掠れた低い声で囁くように言われ、宮野は東雲の手を握りながら足元に視線を落とした。別に東雲を見たくない訳では無い。余りにも真っ直ぐに可愛いと言われ、顔や耳が真っ赤になってしまい、とてもじゃないが東雲を直視出来なかったのだ。 スタバまで歩くH大学生が沢山居る中、東雲と歩く道。 将来を左右するような一日の大学三年の冬の夜。 この前の病院の時とは違う、とくんとくんというような鼓動ではなく、鼓膜や指先まで響くようなどくどくと脈打つ鼓動。 この高鳴るような胸の鼓動の正体を、宮野はまだ知らない。
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