触れ合った

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「前にも少し言ったんですけど、俺は高校も大学も推薦だったんです。推薦で選ばれる為に毎日努力して、その結果やりすぎて中学の時に怪我をしました。それでも治る事を信じてくれた高校から声がかかって、高校で結果を残したから今の自分が居ます。努力したジャンルは全く別ですけど、乃愛さんと境遇だけでみると同じような状況ですよね」 東雲と出会って初めてこんなにも真剣に東雲が話す所を見た。普段ポジティブで明るい性格の東雲だが、こうして自分が本気で悩んでいるからこそ東雲自身の過去も踏まえて話してくれるのだろう。 努力をし過ぎた余りに怪我をしたなんて東雲は莫大なストレスの中でバスケと向き合ってきたのだなと宮野は東雲の事を潤んだ瞳で見る。 こんなに今は前向きにバスケに励む東雲にもプレッシャーを感じる過去があったのだ。年下だが自分よりも先に人生の分岐点に立たされていた東雲の話を宮野も真剣になって聞く。 宮野は中学の時に体調を崩し、高校は七瀬と共に通信制の高校に進学した。H大学に合格する為に一日の時間の殆どを勉強に充てるような毎日を送っていたが、東雲が言うようにジャンルは違えど東雲も毎日バスケと向き合ってきたのだ。 学んだからこそH大学に合格した自分と、努力を欠かさなかったからこそ推薦で高校大学に進学した東雲。お互いの初めての共通点は目の前の課題に真摯に向き合った事なのかと宮野は東雲の手を少し強く握った。 大学に入学してからも様々な苦労をしてきた。だがその苦労を乗り越えたからこそ、今は専門的な分野の研究をする事が出来ているのだと思う。 提出したレポートの数なんてもう自分でも数え切れない程だ。先輩である上の学年の医学部生と一緒になって薬品や人体の研究をしているが、まさか大学院に行くだとか外科医を志望しないのであれば学科を変更するだとかの具体的な提案をさせるとは思わなかった。 その上これからも研究は続けて欲しいと言われているのだから自分でも正直訳が分からない。恐らく東雲も似たような気持ちになったのでは無いだろうか?自分の小さな手を握り返してくれる東雲の大きな手の平をぼうっと見つめると、東雲が真剣な顔つきで再び口を開く。 「頑張った結果が形になる事って、望んでいたのにも関わらずめちゃくちゃプレッシャーになるのは俺も経験しました。俺の場合は、結果を出さなきゃ学費を払う事になったり最悪退学になる可能性とリスクもあったので、本当に悩みました。ですけど、バスケが好きでもっとバスケを頑張りたいと思ったから決断しました。同意書にサインする時の手の震えは今でも忘れないです」 思っていた以上に東雲は人生の中で追い詰められたような経験をしていた事に宮野は驚いた。そんな経験をしている事を微塵も感じさせない程にいつも東雲は明るく笑っているからこそ驚く。 プロを目指すような体育大学の学費を全額払うとなると相当な額になるだろう。ましてや入学する段階で退学という可能性も示唆されるような同意書にサインをするなんて、手が震えてしまう事も無理は無い。 そんな条件の中でも東雲はバスケに人生を捧げると決断をし、同意書にサインをした。 それに比べて自分は二人の教授に体や心の調子を気遣って貰い、猶予も与えて貰っているのだ。まずはゆっくりと考えてみてくれと朗らかに言われた自分よりも東雲の方がずっと苦しい決断をしているではないか。 実際にプレッシャーに打ち勝ち今体育大学に通っている東雲は人生の先輩といっても過言では無い。 「隼人はプレッシャーにどうやって勝ったの?」 「勝ったというか、自分に絶対やるって言い聞かせました。それでもやっぱりプレッシャーは消える事は無いんで、情けない話眠れない日とかもありましたよ。」 いくらポジティブで元気の塊のような人間の東雲だが、眠れない程の不安を感じても可笑しくないなと話を聞いている限り思ってしまった。 そしてこうして自分が不安になったりプレッシャーで押し潰されそうな気持ちになっている事は何ら可笑しく無い事なのでは?と宮野は考えを改める。 そう考え方を変えることが出来たのは間違いなく東雲の経験談を聞いたからこそだ。 「隼人もプレッシャー感じたんだ……きっと辛かったよね」 精神科に通っているからこそ余計に気持ちが押し潰されそうになっているのかと思っていたがそれは違う。 どんな人間だとて人生の分岐点に立たされると心の底から思い悩むような壁に直面するのだ。それは性格や境遇が全く違う東雲も自分も同じだった。 自分の手を握りながら話をしてくれる東雲の手がいつもより大きく頼れる手のような気がしてしまい、周りの目も気にせずに東雲の指に自分の指を絡ませた。 そんな自分の手を東雲はカウンター席のテーブルの上に優しく置き、離さないと言わんばかりに強く握ってくれる。 「俺の勝手な予想ですけど、選ばれる側の人間がしてきた努力って一般人離れしていると思うんです。だからこそこうして素直に喜べない部分が出てくると思います。プレッシャーを感じるのは当然だと思いますし、俺や乃愛さん側の人間は皆そうなると思いますよ。」 「そうだね。自分も勉強では凄く努力した。今やってる研究や学び方も周りからは独特だって言われるよ」 将来を見据えてしていた訳ではないが、それが結果となって今の状況になっている。沼に嵌るような気分の沈み方をしてしまうのは、このH大学に合格する為の努力と、大学に入学してからの三年間の努力があってこそだと東雲の話を聞いて思い直す事が出来た。 東雲のお陰で気持ちが物凄く軽くなった気がする。一般人離れをした努力という言葉は自分で思ってはいけないのかもしれないが腑に落ちる所があり、今まで医学部で行ってきた研究や学んだ事の量を思い浮かべる。 特に解剖学は医学部に入学すると努力してきた者でも生理的な問題で無理だと断念した生徒が居た。 「素人の俺から見ても乃愛さんは凄いと思います。確実にレベル高いです。バスケをやってて、生徒の体をケアする医療関係者は何人も見てきたからこそ分かります。体触るだけでどうしたらいいかとか直ぐに分かったりするのも凄いですし、実際にそれをやったら楽になるので。まだ数ヶ月の付き合いの俺ですら思うなら周りの知識ある人は評価せずには居られませんよ」 「頑張ったには頑張ったけど、隼人の怪我に気がついたのは本当に勘みたいな感じなの……」 「その勘が凄いんです。例えば七瀬さんだと、確かに頭も良くて努力をしているH大生ですけど、乃愛さんのように誰かに評価されて将来が左右されるというよりは、自分の力で道を切り開く感じがします」 彼女だデートだと何を言ってるんだと思うような事を平気で言うような東雲だが、自分の事を持ち上げるように評価した訳では無く、本当に凄いと尊敬するように褒めてくれた事が宮野としては嬉しかった。 そして一番身近な人物で例えられ納得もした。確かに七瀬もH大学の生徒であり、教育学部の生徒の中では効率良くカリキュラムを取得する器用な生徒だ。 だがそんな七瀬の学び方を評価し、大学院に進学を進めたりする教授は居ない。七瀬自身も自ら教員免許を取得するとこの間言っていたばかりである為、将来就職する為に七瀬はこれから苦労する事になるだろう。 蘭はH大学を中退しアーティストデビューをする事になったが、そのデビューも高校の時からバンドのメンバーと共に苦労をしてきたからこそ決まった人生でもある。 H大学に入学したからといって皆が皆教科書通りに将来について決める訳ではないという当たり前の事に気付かされた。 「やりたい事を認められるって、自分の今までの努力が形になった事だと思います。それに乃愛さんなら大学院に進んでも絶対に結果を出すんだろうなあって簡単に想像出来ます」 「ほんと?」 東雲ははっきりと自分になら出来ると笑顔で言ってくれる。結果を残す事が出来ると不安になっている自分の背中を押してくれている事が伝わってくる。 東雲の手を握りながら宮野は念を押すように聞いてしまったが、東雲はそんな情けない自分の事を笑う事はせずにはっきりと首を縦に振った。 「はい。前向きに検討するでいいと思います。今回の件に関しては、乃愛さんと付き合いの長い七瀬さんよりも俺の方が理解出来た気がします。ベラベラ喋ってごめんなさい!」 真面目に自分の話に付き合ってくれていた東雲がいつもの優しくて明るい東雲に戻った。その瞬間に緊張の糸が切れたが、東雲の言ってくれた言葉や人生においての経験や価値観は宮野にとって物凄く自信に繋がるものになった。 あれだけ一人でぐるぐると悩んでいた大学院や学科の変更も前向きに考えていいのでは?と思うようになったのだ。 こんなに自分を評価してくれる教授は今後現れないだろう。そして自分の体や心を気遣いながらも、自分を必要としてくれるH大学の大学院やT大学の井上教授の存在は、自分の未来において輝いているように感じたのだ。 こんな人生に一度あるか分からないチャンスを逃したくはない。そう思う事が出来たのは東雲が自分の話を真剣に聞いてくれた上に、背中を押すような言葉を掛けてくれたからである。 「乃愛さん、ケーキ食べましょう?頭使って疲れてる所に俺まで疲れさせるような事言いましたよね」 「そんな事ないよ!凄く楽になったし…隼人が良ければまた相談してもいい?」 「勿論です」 そこで漸く東雲とずっと繋いでいた手を解いた。手を離す時にそういえばあれだけ冷え切っていた東雲の手が温かくなっているなとぼんやりとした頭で考えた。
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