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自分がか細い声で東雲を求め手を伸ばした瞬間、東雲が宮野の手を引き思い切り抱き締めた。
かなりの力が入っているのに苦しくない。華奢な自分と筋肉質な東雲の対照的な身体が密着する位に抱き締められた。
割れかけのガラスにそっと触れるように、自分の体を大きな手のひらが包み込む。互いの鼓動が伝わる程にピタリと密着している体の距離感に戸惑っていると東雲が耳元で囁いた。
「乃愛さん、俺の背中に手を回して」
いつもの敬語ではない。だが、そこには温かい東雲の人柄が出ていた。
低く掠れた東雲の声に宮野はおずおずと背中に手を回すと東雲の手のひらが自分の髪に触れる。唇が触れそうな位に耳元に寄せられる。
「すげえいい匂いする」
「シャンプーしたから…」
「でも俺と違います。乃愛さんと出会った時から思ってました。甘くて優しい匂いがするなって。」
「は、恥ずかしいよ……」
「こういう時は恥ずかしくて良いんですよ」
耳元で囁く低くて優しい落ち着く声。自分を抱き締める大きな体。触れる手のひら。全てを意識した瞬間に動悸が激しくなった。
恥ずかしい。でも離れたくない。けれど恥ずかしい。
矛盾する気持ちで東雲に抱き締められ続けた。抱き締められるという事はこんなにも恥ずかしく、だが求められる物なのだろうか?初めての経験で分からないが、東雲の心臓も先程よりも早くドクドクと脈を打っていた。
そっと東雲の胸板に手を添えると東雲が自分の首元に顔を埋める。ほんの少しだけ当たった唇の感触に胸が跳ねたが、宮野は再び東雲の背中に両手を回した。
「……隼人も恥ずかしい?」
「はい……でも乃愛さんを離せないです……このままずっとこうしていたいです。」
「自分も……隼人とこうしていたい……」
無音の中自分達の鼓動だけがやけに大きく聞こえた。東雲の匂いが自分にも移ってしまいそうな位の距離感。こんな距離感に誰かとなった事など一度も無い。
恥ずかしさのあまりに顔は見れないが、自分は火照ったように顔が熱くなった。ゆっくりと東雲が自分の体をソファーに寝かせるように体勢を変える。
まるで押し倒されているかのような体勢に宮野は少し戸惑いながらも、何故か溢れ出てくる多幸感から東雲の体に身を預けた。
「乃愛さんが安心出来るまで、ずっとこうして抱き締めます」
「はやと……」
「眠剤効くまで三十分位かかりますよね?だから……せめてそれまでこのままで居させて……」
彼女ですデートですと笑顔で言う男性と本当に同一人物なのだろうかと疑わしくなった。東雲から伝わる温もりと鼓動にこのまま溺れてしまいたいと思いながら、宮野は東雲の首の後ろに腕を回す。
すると東雲が自分の体を少し持ち上げるように抱き締めた。横を見ると伏し目がちの東雲の顔がある。
熱を帯びて赤くなった顔を見られたくないと東雲の肩に顔を埋めた。
男性に抱き締められるという事がこんなにも胸が高鳴ったりするものなんて思わなかった。こんなにも満たされるだなんて思わなかった。
あまりにも満たされ過ぎたあまりに自分の目から涙が零れる。その涙が東雲のスウェットを濡らしてしまった。
少し顔を上げて離れようとすると東雲がそれを許さまいと手のひらで後頭部を優しく力強く掴む。
「乃愛さん……俺から離れないで……」
「はやと?」
「…………俺だけにしか、こんな事頼まないで……誰にも……七瀬さんにも、絶対頼まないで下さい……俺だけを選んで」
東雲だけを選ぶ?
何故そんな提案を東雲はするのだろう。自分と東雲はまだ出会って間もない友人で、少し距離感が他とは違うような変わった関係の友人。
年下の東雲に頼ってばかりいられない。迷惑をかけられない。
そんな当たり前の事を自分は理解しているのに、どうして自分は首を縦に振ったのだろう?
すると東雲が少し喉を鳴らして笑い、自分の体をソファーに寝かせた。
「は、やと……」
「約束ですよ?乃愛さん」
「約束?」
「そうです。これからは俺だけにこういう所を見せるって約束」
東雲が自分の顔を慈しむように見た後、そっと体を離していった。体は離れていったのにも関わらずまだ東雲の体温や鼓動が自分の体に残っている。
宮野はゆっくりと余り力の入らない体を起こし、少し距離を置いた東雲の横に座っては胸を押さえた。
約束。東雲にこれから自分はこうして弱い所も見せていくという約束。長い付き合いの七瀬にも見せない自分を東雲に見せるというよく分からない約束だが、宮野の心は満たされていた。
今自分は満たされた。そう感じた瞬間に本当に小さな欠伸をしてしまった。すると東雲が小さく笑って自分の腰を優しく撫でる。
「眠くなりましたか?」
「うん…睡眠薬効いたのかも……」
「頓服飲まなくても大丈夫でしたね」
「……隼人が抱き締めてくれたから」
そう言うと東雲は少し目を見開いた後、いつもの満面の笑顔を見せて自分の両頬に手を添えた。
少し恥ずかしい気持ちがあるが宮野も笑顔を見せ、東雲の手の上から自分の手を重ねる。
するといつも通りの東雲が自分の横に座り、肩を抱き寄せながら優しく笑った。
「また泊まりに来ますね。乃愛さん安心させる為に来ますから」
「でも……隼人だって大学があるし……」
嬉しい提案ではあるが流石に申し訳ないと宮野は首を横に振った。東雲にもやるべき事があるのに、家族や友人も居るのに、そんなに自分のわがままに付き合って貰う訳にはいかない。
だが首を横に振った自分に対して、東雲は少し息を吐いた後に宮野の目をしっかりと見る。
「大学といっても二十四時間ずっと拘束されている訳じゃないんで。一日の中で例え空いた時間が五分だとしても、俺はその五分を乃愛さんの為に使います」
その言葉に息が詰まるような感覚を覚えた。
自分は人生の中でこんなに甘く優しい台詞を言われた事が無い。真っ直ぐ自分を見つめる東雲に、『でも』とか『だって』とかという言葉は出てこなかった。
東雲がいくら多忙でも自分の為に時間を作ってくれるというならば、自分も東雲の為にこれからは時間を作ろう。東雲との約束を守ろう。
宮野は一度唇を引き締めた後に首を縦に振ると、東雲が自分の手を優しく握った。
「乃愛さん。寝ましょう?寝室まで送ります」
「一人でも大丈夫だよ?」
「転んだりしたら大変です。それに今俺が支えなくてどうするんですか」
もう寝る時間になったのか。
だとすると相当な時間東雲と抱き締め合っていたのだなと、宮野は目を伏せながら感じた事の無い幸せに身を包まれる思いだった。
立ち上がると睡眠導入剤の影響からか少しふらついてしまったが、そんな自分の体を東雲はしっかりと支えてくれた。
ゆっくりと寝室まで二人で歩き、宮野は東雲の手からそっと離れる。寝室の扉を開けてから東雲をそっと見上げると、東雲は優しい笑みを浮かべて自分の目線に顔を合わせた。
「乃愛さん。おやすみなさい」
「うん……隼人、おやすみ」
パタンと閉じられた寝室の扉。最後まで東雲は優しく笑ってくれていた。ベットに移動する間に聞こえてくる東雲の足音に宮野は漸く何かから解き放たれたような不思議な感覚に陥った。
ベットに潜り込み、体を丸めて今日一日の事柄をぼんやりと思い浮かべる。まだ耳殼に残っている低く掠れた東雲の声に体を火照らせ、宮野は布団にくるまりながら目を閉じた。
もう少し起きていたいような気がしたが、眠剤の効果からか直ぐに眠気が来てしまう。リビングで東雲は一体一人で何を考えているのだろうか?
もし自分と同じように、瞼の裏側に自分を思い浮かべていたら嬉しいな。そんな馬鹿みたいな事を考えながら宮野はそのまま眠りについた。
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