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……え?開けようとした扉の前で宮野は硬直した。死ねと言ったのは七瀬だ。
喧嘩でもしているのかと、少しだけ開いていた扉から二人の様子を伺うと、東雲とタバコを吸っている七瀬が私服姿で並んで座っている。
「だーかーら、何もしてないって言ってんじゃないっすか」
「ぜってえ許さねえ。お前なんかくたばればいい。死ね」
「それシンプルな悪口です。というかひでえ事ばっか言いますね」
「まさか手ぇ出したりしてないだろうな?」
「少しは俺を信頼しろよって感じです。それに七瀬さんみたいな精子脳してないんで」
タバコを持っている手とは逆の手で、七瀬は東雲の頭を思い切り引っぱたく。その力加減にもおどろいたが、宮野は驚いたのは二人の会話の仕方だ。先程まで自分が居た時とは別人のように砕けた話し方をしている。
それに、七瀬が死ねなんて言葉を言っているのを聞くのは初めてだ。東雲も東雲で、敬語のようなタメ口のような口の利き方をしている。
自分の前で見せる明るく礼儀正しい東雲ではない。七瀬も東雲も自分の前で話している時よりも男子大学生らしく思える。
自分の前でもこうして話したりしてくれても構わないのだが、二人は一切そんな素振りを見せない。そしてふと思った。
自分が精神科に通っているからだろうか?
知らず知らずの内に東雲にも七瀬にも気を遣わせているのだろうか。
自分の存在に気づかず、二人は会話を続ける。
「精子脳はお前だろ。ていうか、脳みそだけじゃ済まないくらいじゃね?全身が精子で出来てんじゃねえの?」
「タバコ付き合うの辞めよっかな〜。あとごみ捨てだけなんすよ?感謝位しやがったらどうすか?」
「ぶっ殺されたいのかお前は」
そこまで聞いて知らず知らずの内に握っていた扉の取っ手に力を入れてしまった。ガチャンと音を立てて扉が開かれ、二人が振り返り自分の方を向く。東雲も七瀬も驚いた表情を見せたが、直ぐに七瀬は火のついたタバコを消し、東雲は自分の元へ走ってきた。
「ほら!七瀬さんがタバコ吸うから乃愛さん来ちゃったじゃないですか!……乃愛さん?何かありましたか?」
「えっと…トイレの場所聞きたくて……」
「乃愛ごめんな。先に教えておけばよかった。場所分かりにくいんだよ。ここ煙凄いから隼人に案内して貰ってくれ。ついでにゴミも俺が捨てとく」
「乃愛さん、こっちです」
優しく腰に手を回してくれた東雲にありがとうと言ったが、内心心がざわめいていた。何故二人共自分の前ではああやって話してくれないのだろうか?七瀬も七瀬で、何故自分の前では煙草を吸わないのだろうか?吸い始めたきっかけも、吸っている姿も知らなかった。
精子脳。確かに自分は性的な話は苦手だが、この程度だったら笑って聞き流す位の事は出来る。自分の前では言わず、自分が一人待っている時に、二人だけでそういった話をしていた。
楽しかった一日だった筈なのに、本当の二人の姿を自分だけが知らなかったと思うとショックで心が蝕まれる。
「乃愛さん、ここです。……乃愛さん大丈夫ですか?」
「え?あ、うん!大丈夫だよ」
案内されたトイレで用を足し、手を洗い戻ると二人が立って待っている。何時もなら東雲と七瀬の立ち姿を見ると、これ以上ないくらいの喜びと安心感でいっぱいになるが今は違う。
本当に仲が良いのは、二人なのではないだろうか。自分の傷つきやすい性格に気遣い、肩身の狭い思いを東雲も七瀬もしているのではないか。
お祝いをしてくれた二人にこんな事を思っては失礼だと自分を咎めるが、じわりじわりと血が滲むように心の傷が広がっていく。
「乃愛、車温めておいたから乗れ。送ってく」
「……今日は歩いて帰ろうかな」
「は?何言ってんだ。こんな遅い時間に人気の無い所を乃愛が歩いてたら危ないだろ。」
「乃愛さん。お願いですから七瀬さんに送って貰って下さい。ここら辺この時間になると物騒なんですよ。乃愛さんみたいな可愛い人居たら、七瀬さんの言うように危ないです」
「……そうなんだ」
七瀬と東雲に支えられるように店を後にした。鍵を閉めてその鍵を七瀬が財布にしまう。東雲が滑るのでと自分の手を取り、七瀬の車まで体を気遣いながら歩いてくれる。いつもならば優しいなと純粋に嬉しくなる心遣いも今は胸が痛くなった。
「ごめんな乃愛。疲れただろ?薬飲む時間も近いのに悪かったな。」
「乃愛さん具合悪くなっちゃいました?」
「ううん!大丈夫!…七瀬と隼人と美味しいの食べて楽しかったから、寂しいなって……」
咄嗟に嘘をついた。二人は自分を喜ばせようと色々な用意をしてくれていたというのに、心がざわめいているなんて知ったらショックだろう。
だが二人は自分の付いた嘘を信じたのか安心したような顔をした。時間的に寒さが身に染みるが、理由は寒さでは無い震える手をコートのポケットに入れた。色々な思いを交差させながら握り拳を作る。
「乃愛さん。またLINEしますね」
「……え?あ、うん。隼人ありがとう。ウーバーイーツの話面白かった」
「なら良かったです。七瀬さん、あとは頼みます」
「言われなくても責任持って送るわ。乃愛、車乗れ。風邪引くぞ。あと、ドリンクホルダーにホットドリンク入れておいたから飲め」
「うん。ありがとう」
七瀬に導かれるがままに助手席に座ると、七瀬が眼鏡を掛けてエンジンを付ける。発進させた車を、東雲が大きく手を振りながら見送ってくれた。
東雲に取り繕った笑顔で手を振り、七瀬の横顔を見る。先程初めて見た七瀬の煙草を吸う姿。自分だって隣で見ていたいなと、宮野は運転している七瀬の事を横目で見る。
「七瀬、タバコ吸っても良いんだよ?」
「乃愛の体に良くないだろ。ていうか、なんかあったか?今までそんな事言った事無かっただろ」
「ううん。何となくそう思っただけ…」
「見送るだけにしようと思ったけど辞める。乃愛の部屋まで入って、話聞くわ。絶対何かあっただろ?」
「それは……」
らしからぬ発言で七瀬に自分の気持ちがざわめいている事を勘づかれてしまった。部屋に入って話まで聞くという七瀬に、申し訳無さから言葉に詰まると七瀬が頭を撫でてくれた。
そんな七瀬の整った顔が若干歪んでいる。恐らく自分を心配しているのだろう。こんなに優しい友人の顔を歪めさせているのが自分なのだと思うと、自分を責めずにはいられない。
「乃愛。俺が居るから。大丈夫だから」
無言で車に揺られていると、あっという間に自宅のマンションに着く。七瀬にそう言われ、車から降りると七瀬が後ろを歩き部屋まで一緒に来てくれた。鍵を開け、部屋に入ると七瀬がコートを脱ぎながら当たり前のように部屋に入ってくれた。
部屋に入ると一気に疲労感を感じ、コートを脱いでソファーに座ると七瀬が横に座った。背中をトントンと優しく撫でられる。いつもはこの動作が精神安定剤の如く自分を包み込んでくれるのだが、今日は違った。
ずっと無言のままでいると、七瀬が口を開く。
「俺にも言いたくない何かがあるのか?」
「言いたくないとかじゃなくて……」
「言いづらいか?」
「そういう訳でもなくて……」
自分でもこの気持ちをなんて言っていいのか分からない。混乱と疲労から回らない頭で必死に言葉を探すが見つからない。結局無言になってしまい、静まった部屋の中七瀬に肩を抱き寄せられた。
「七瀬…あのね、」
「訪問看護受けてみろ」
「……え?」
突然の申し出に頭が真っ白になる。だが、真剣な七瀬の眼差しに思わず目を逸らしてしまった。ずっと嫌だと思いながらも、だらだらと返事が出来なかった事だ。だが、今はこの話はしたくない。なのに、それすら口に出せない。
「俺にも隼人にも話せない事なんて山ほどあるだろ。今だって乃愛は辛い思いしてるんだろ?」
「…そんなことないよ」
「こういう利用出来る物はとことん利用した方がいい」
「……七瀬、やめて」
「大学院行くの決めたんだろ?なら、絶対に乃愛の為になる」
「やめてって言ってるじゃん!!」
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