おかえり

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七瀬の家は大学から近いマンションの一室だ。いつも七瀬が自分の家に足を運ぶ為、あまり来た事はなかった。バスに乗っている時間も勿体なく感じ、タクシーで七瀬の家の前までやってきた。 時刻は夜の八時。七瀬の車は停まっているが、部屋の電気は付いていない。何度もチャイムを鳴らしたが、人の気配すら感じず、今は家に居ないと外で七瀬の帰りを待った。 嘘だと信じたい。七瀬に限ってそんな事は無いとこの目で確かめたい。大学内で噂になっていようが、宮野は最後の最後まで七瀬の事を信じたかった。 だが、最後の希望を打ち砕くように七瀬が現れた。 「七瀬…」 隣には顔も見た事がない女性が居た。七瀬の腕に絡みつくように抱き着く女性。わざとなのかは分からないが、胸が見えそうな服を着ているあまり良い印象を持てない女性と歩いていた。その女性の存在が、七瀬が本当に噂通りの事をしているという証拠になった。女性と話していた七瀬が、宮野を見て驚いた顔をし足を止める。 「何してるの?」 宮野の問いに七瀬は表情を変えることは無かった。自分を見るとは思えない何の感情も伝わってこない視線を宮野に向ける。この男性は本当に七瀬なのだろうか?すると七瀬の隣に居る女性は自分を訝しげに見た後、七瀬に胸を当てるように擦り寄った。 「七瀬くん。あの子誰?」 「……知らん。さっさと部屋行こう」 「待ってよ!知らないって何!?それに学校来てないって聞いたよ!七瀬どうしちゃったの!?」 宮野の言葉に立ち去ろうとした足を七瀬は止めた。困惑した女性が七瀬と自分を交互に見る。それに宮野は自分の存在を、知らんという言葉一つで片付けようとした七瀬に憤りを感じた。こんな態度取られたことがない。本当にどうかしてしまったのかと七瀬の腕を掴む。 「高校生の時、二人で一緒にH大学に通おうって頑張った事忘れたの?」 宮野の問いに七瀬は一瞬表情を曇らせた。だが直ぐに無表情に戻り、見下ろすように宮野を見て吐き捨てるように言った。 「覚えてない」 その言葉を聞き、宮野は思い切り七瀬の頬を叩いた。静かな住宅街に破裂音が響き渡る。宮野が人に手を出したのは生まれて初めてだ。七瀬の胸ぐらを掴むと、腕に抱きついていた女性が七瀬から離れた。 「目を覚ませ。こんな事今すぐ辞めろ。いつもの七瀬に戻って」 宮野の出す低い声と命令口調に七瀬は目を逸らす。自分でもこんなに低い声は出した事がない。こんな言い方をした事も無い。だが、今の宮野の怒りが届いたらしい。七瀬は女性に小さく帰ってくれと呟いた。女性も女性で只事では無いことを察知したのか、七瀬から離れてそのまま帰っていった。 七瀬と宮野が二人きりになった時、七瀬は宮野を呆れたような眼差しで見た。 「乃愛さ、俺の事買いかぶりすぎじゃね?」 「何言ってるの?」 「それに手を出していいのかよ。今の女は大学とは関係ない奴だったからいいけど、大学に知られたら大学院に行く話白紙になるぞ」 「そんな事今はどうだっていい!」 買いかぶってなどいない。七瀬はこんな事を平気でするような人ではない事は他の誰よりも知っている。だがこの期に及んでもまだ正論を言う七瀬の胸ぐらを押し返すように離し、宮野は怒鳴る。すると、無表情だった七瀬の眉間に皺が寄った。 「俺は元々こういう人間だ」 「そんな訳ない」 「辛そうな顔してるな」 「当たり前だよ…っ」 当たり前の事を言うように淡々と話す七瀬。そんな七瀬の態度に怒りの次に悲しみが訪れた。自分の知らない間に七瀬の人格が変わってしまったという悲しみから宮野は今にも泣き出しそうに顔を歪めた。その顔を見てだんまりを決め込んでいた七瀬が口を開く。 「そうだよな…辛いよな…まあ、当たり前だろうな」 「七瀬?」 「そうだよ。今乃愛が精神科通っているのも、薬を飲まなくちゃいけないのも全部俺のせいだよ!!」 「……何言ってるの?」 七瀬の悲痛な叫び声に、宮野が若干冷静を取り戻す。俯き、髪に隠れて表情は見えないが、七瀬は唇を痛い程に噛み締めていた。精神科への通院と服薬が自分のせいだと声を荒らげる七瀬に、宮野はどういう事かと何度も目を瞬かせる。 「中学の時、乃愛が体調を崩しただろ?俺が乃愛に無理な事させて、乃愛の心も体もめちゃくちゃにしたんだよ。だから乃愛が幸せになったらその時は俺は乃愛の前から去っていくって決めていた」 「何、それ…」 「お前には隼人が居るだろ。だから、俺はもう乃愛の傍に居る資格なんて無い。今の乃愛に、俺は必要無い」 七瀬の言葉に宮野は俯き、両手を固く握りしめ、肩を震わせた。中学の時に確かに自分は体調を崩した。クラスメイトからの嫌がらせによって一度学校で倒れてしまった事があり、それから保健室登校になってしまった。精神科に通っている事は事実。薬を飲んでいる事も事実。だが──── 「……ずっと、そんな事思ってたの?」 七瀬の口から発せられた七瀬の気持ちに、宮野の声が震える。 「中学の時から、そうやって自分を責めてたの?」 自分が体調を崩してからの約八年間の七瀬の気持ちを推し量る。 「そんな七瀬の気持ちに気付かずに、自分は七瀬に甘えてたの?」 いつだって笑顔で乃愛と呼んでくれていた目の前に立っている七瀬の苦しそうな表情を見て、宮野の感情が爆発した。 「……っ、ずっと友達だって思ってたのは自分だけだったの!?!?」 顔をくしゃくしゃに歪ませ、大きな目に溢れんばかりの涙を浮かべそう言った。そんな宮野から七瀬は目を逸らす。それを許さまいと、宮野は七瀬の腕を引っ張り自分の方へと引き寄せた。 「七瀬のせいで辛くなった事なんて一度も無い!それに……それに…っ、七瀬が居なきゃ自分の人生なんてたかが知れてたよ!!」 目に溜まっていた涙がボロボロとこぼれ落ちた。その涙を見た七瀬が、無意識の内にその涙に触れようと手を伸ばした。その手を宮野が握りしめる。 引っ込めようとした七瀬だったが、宮野はそんな七瀬の手を力いっぱい握り締めた。 自分の背中をトントンと叩き、優しく乃愛と抱きしめてくれた細くて綺麗な自分を救ってくれた七瀬の手。 「中学の時、保健室に通ってたのは七瀬に会いたかったからなんだ。家に居ても保健室に居ても内申点は変わらない。だけど、毎日七瀬がプリントを持って来てくれてたから通ってた。」 「……乃愛」 「高校だって、七瀬がI高等学院を紹介してくれたからそこに通おうって決めた。七瀬と一緒に夢を叶えたかったから」 宮野の目から止まることなく溢れ出る涙と発せられる言葉に、七瀬の顔が歪む。今伝えなければ、誤解を解かなければ永遠に七瀬との関係は途絶えてしまう。 そう思ったからこそ宮野は七瀬の手を離さずにその場で全ての気持ちを伝えた。 「中学を乗り越えられたのも、高校で頑張ろうと思えたのも、こんなに勉強を好きになる事が出来たのも……全部七瀬が居てくれたからだよ!」 「乃愛……」 七瀬が保健室までプリントを持ってきてくれたから。通信制の高校を見つけてくれたから。七瀬がずっと傍に居てくれたから。 宮野は小さな体を震わせ、涙を流しながら懸命に七瀬に気持ちを伝える。 精神科に通っている事も薬を飲んでいる事も七瀬は何も関係はない。ボロボロと涙を流す自分の背中にそっと七瀬は手を回した。 いつも自分の背中に回されていたその手の感覚に、荒くなっていた宮野の呼吸が少しずつ落ち着いていく。
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