秋(円歌編)

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秋(円歌編)

 受験が迫る中で私のストレス解消になっていたのは趣味のお菓子作りだった。出来立ての甘い香りに包まれて紅茶をいただくという優雅な休憩をすると気分転換になる。いつも多めに作っては家族だけでなく寧音や晴琉にもお裾分けしていた。  甘いものが苦手な葵の分を最初は作っていなかったけれど、晴琉たちだけずるいと言ってごねるようになったから、特別に他のものより小さい一口サイズのお菓子を作って葵の分として渡すようになった。コーヒーを片手に意を決したように一口サイズのお菓子を食べる葵の様子は見ていて微笑ましかった。いつも感想は「甘い」の一言だけ。決して「美味しい」とは言わないところに嘘をつけない真面目な葵の部分が出ていた。 「うぅ……甘い」 「食べてもないじゃん」  ある日の午前のこと。お菓子作りをしているところを見てみたいと言うから家に呼んであげたのに、葵は作る過程の甘い匂いだけでうなだれていた。そんなに匂いが嫌ならリビングに行って離れたところから眺めてたらいいのに、ずっと背中から抱き着くようにしてぴったりと私にくっついていた。 「もういいでしょ?リビングで勉強してたら?」 「……でもこの状態すごく恋人っぽいし」  確かにキッチンでお菓子作りをするエプロン姿の恋人を後ろから抱きしている状況は傍から見たらラブラブそうだけれど、今の葵は私の肩に頭を乗せて、漂う甘い匂いに苦しむように唸り続けていて、甘い雰囲気には程遠いように感じた。 「出来るまで時間かかるから……後で恋人らしいことしよ?」 「……わかった」 「じゃあちょっとどいて。肩重い」  やはり無理をしていたのか、すんなりと私から離れて行った葵は大人しくリビングで勉強を始めた。私は集中してお菓子作りを進めた。  ようやくオーブンに生地を入れて、焼き始める。一段落したところで葵の様子を窺おうと振り返ろうとしたら葵が後ろから抱きしめるから身動きが取れなくなった。 「何分焼くの?」 「ん?30分経ったら完成」 「じゃあもういいよね?」 「何が?」  私は自分で言ったことをすっかり忘れていた。勉強をしながらもちゃんと覚えていた葵は、待ってましたと言わんばかりに服の中に手を入れて私の体を撫でてきた。 「恋人らしいこと、していいんでしょ?」 「……ここキッチンだから……」 「いいじゃん。お菓子作るたびに思い出してよ」 「……もしかして葵、最初からそれ狙って来たの?」  私の体を撫でていた葵の手がピタッと止まった。 「……そんなことないよ」 「えー?だって甘い匂いもダメなくせに、お菓子作り見てみたいなんておかしいでしょ。絶対興味ないじゃん」 「……だって……晴琉と寧音ばかり喜ぶことしてて……ずるい」 「別に葵のことを考えてないわけじゃないよ?」  むしろ今作っているシフォンケーキは葵が来るというから、葵のことだけを考えて作ったのに。 「あとごめん葵、時間かかるの焼けた後だから。焼けるまでに片付けしたいからもうちょっとリビングで待ってて」 「えー……」  葵は渋々と私の服から手を抜いて、肩を落としてリビングにあるソファに戻って行った。  後片付けをして、お皿を準備しているうちにシフォンケーキは焼きあがった。後は冷めるのを待つだけ。葵の様子を見たらソファで不貞寝をしているようだった。 「葵、起きてよ~」 「……もういいの?」 「うん、後は冷めるの待つだけだから。4時間くらいかなぁ?おやつに食べようね」 「え⁉そんなにイチャイチャするつもりだったの⁉」 「違う!」  寝ぼけていたのか知らないけれど、結局なんかそういう雰囲気じゃなくなって、その後は普通にお昼ご飯を食べて勉強をして過ごした。 「――そろそろ休憩しよっか。たぶんケーキも出来てるし」 「うん」  キッチンへ戻ってシフォンケーキの仕上げをする。思っていたより見た目は上手に出来ていた。後は味だけだ。自分の皿にはクリームを添えて、葵の分はプレーンな状態のままシフォンケーキを葵が待つリビングへ運んだ。 「……どうかなぁ」  葵は恐る恐るといった感じで口にシフォンケーキを運んでいた。私も緊張してしまう。 「……美味しい」 「良かったぁ」  目を丸くして葵は驚いていた。「甘い」じゃなくて「美味しい」と言ってもらえて嬉しくなる。葵のために、普段は作らない甘さ控えめの大人向けのスパイスの効いた味にしていた。 「いつもこういうのがいいな」 「ヤダよ。もっと甘いのが食べたいもん。今日は特別だからね」 「……葵のため?」 「うん、そうだよ」 「……ありがと」  葵はいつになく機嫌が良くなって、ペロリとすぐに完食してしまった。自分で食べるのも好きだけれど、やっぱり好きな人に美味しく食べてもらえるのも好きだ。 「まだおかわりあるよ」 「……円歌も食べたい」 「もうすぐお母さん帰ってくるからダメ」 「えー……」 「だからちゅーまで、ね?」  すぐに訪れた、甘いものが苦手な恋人からのキスは、とびきり甘かった。
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