八章 謎を追う

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八章 謎を追う

「あー! 水無瀬さぁん!」 「うわっ、久遠寺。なんでここに居るねん」 「あんた馬鹿? あんたも優さんもめーっちゃ目立つのに、二人でお茶なんかしちゃってさあ。こっそりあとをつけて後ろの席に座って話を聞いてあげたのよ? 恋人がどうのこうのーって言ってたからぜーったい九条のおっさんのことだと思ってえ、夏季休暇中は毎日ここで待ってたの! さ、早く私も連れてって?」 私と優君は開いた口が塞がらない。 「なんやお前、友達居らんのか?」 透さんが心底不思議だ、と言いたげに言った。 「そうだよお? あんた達のせいで友達が居なくなったの! パパとママに『九条家であったことをペラペラ喋り過ぎだ』ってめちゃくちゃ叱られて、『もう二度と甘やかさない』って言われて私は家を追い出されたのよ! 私が今、どんな生活してるか知ってる? 知らないでしょ! 九条のおっさんにも一言・・・、」 船に乗る前なので気乗りしないが、私は『ダイヴ』を始める。 (なんでもいいから船に乗って九条家に行かなきゃ! これは千載一遇のチャンス! 切り裂きジャックの謎でもなんでもいい! 弱みを握って九条のおっさんに資金援助させなきゃ! もうキャバをクビになるのも三件目であとは風俗しかない! そんなの絶対嫌! 嫌! 嫌! 嫌! もう家賃も払えなくてヤバいのに新作のバッグ買っちゃったし!) 「・・・だからあ、友達が居なくなっちゃって、私、可哀想でしょ? ねえ水無瀬さぁん、私のこと可哀想だと思うなら、私に優しくして? 私も連れてってえ?」 「いいよ」 「文香さん、いいんですか?」 「優君、透さん、ちょっとこっちに」 私は二人に小声で囁く。 「噂に過ぎませんけど、あいつ親に勘当されたんかしてキャバ嬢やってるらしいんですわ。それも三回もクビになっててあとは風俗嬢しかないってところまで落ちぶれてる」 「ありゃー」 「金が欲しくて必死なんでしょ。デコイにええんちゃうかな」 「それは『囮』の方? 『誘惑する』方?」 「うーん?」 「後悔しなや」 「はい」 久遠寺の元に戻る。 「船頭さん、この人も乗せてあげてください」 「ええっ? 勘弁してくださいよ文香様! もうー! 僕が旦那様に叱られないよう、ちゃんと言ってくださいね!」 「はい。えっと、文博さんでしたね」 「あや、名前を覚えてくださるとは。では船にどうぞ。落ちないように気を付けてくださいね」 船に乗る。道中煩く話しかけてくる久遠寺は黙殺した。 「お待ちしておりました、文香様。あら? そちらの方は?」 「すみません、強引に船に乗り込んできたもので。あとで紫月さんに話します」 久遠寺は私を睨み付けたが、喚きはしなかった。 「そう、ですか? ではご案内します」 「はい。お願いします。ところで、お名前をお伺いしてもよろしいでしょうか?」 「白木由香です」 「白木さんですか」 「由香とお呼びくださいませ」 「はい。由香さん。他のメイドさんは?」 「メイド長の真樹さんは食事の準備をしています。他は、えへっ、私だけですよ」 梨花さんは、居ない。 「旦那様が文香様に会う日を指折り数えて待っていましたよ。このところ上機嫌なんです、旦那様」 由香さんはお喋り好きらしい。もしかしたらこの人からもなにか情報を聴き出せるかもしれない。 屋敷に着く。 「おかえり」 紫月さんはそう言った。 「ただいま戻りました」 私がそう返すと、くすぐったく笑う。 「紫月さん、優君と透さんの他に、久遠寺が無理に船に乗り込んできてしまいまして、」 「こんにちはー!」 「久遠寺?」 紫月さんが思い出そうとしている。久遠寺の存在なんて取るに足らない。そういうこと。それを理解したのか、久遠寺は顔を真っ赤にした。 「紫月さんの自室の酒をガバガバ飲んでた人ですよ」 「・・・ああ! 無理やり船に? まあ、いいよ」 「船頭さんは怒らないであげてください。私が無理に頼んで彼は断れなかったんです」 「構わないよ。それより荷物を部屋に。君は私の部屋へ」 「はい。じゃ、優君、透さん、頑張ってください」 「はい」 「はい」 「ねーねーメイドさん、私、お腹空いてるんだけど、ポテチとかないの?」 久遠寺の煩い声をあとに、私は紫月さんの部屋に行く。手でソファーに座るよう促され、その通りにする。紫月さんは冷蔵庫からマンゴーの絵が描かれた瓶とグラスを取り出し、冷えたグラスに瓶の中身を注いだ。 「どうぞ」 「ありがとうございます」 少し口を付けて、私は目を見開いた。 「これすっごく美味しい!」 紫月さんが目を閉じたまま少年のように笑う。 「美味いか?」 「美味い!」 「フフッ。それはよかった。後ろ髪を引き千切る勢いでここに留めておきたくて、君の好きなものを色々用意したよ」 「愛に重力を感じますね」 「重たい男かな?」 「気持ち良い重さですよ」 私は再びマンゴージュースを飲んだ。固形物かと思うほど甘いのに口当たりはさらりとしていて、あとから青さが香る。苦手な人には飲めないだろう。 「それで、今回の彼ら、原田夫妻か。小説のネタに平成の切り裂きジャックの取材を?」 「はい。港町の人達にも聞いて回るそうです。紫月さんにも色々聞きたいと言っていました」 「私は構わないが・・・」 『こんな夜中に出掛けたら、切り裂きジャックに襲われるよ』 「夜には出掛けないよう、キツく言っておきましたから」 「文香さん、言っておくがね、君が彼のファンだと言うから今回のことを許可したんだ。久遠寺さんのことだってそうだ。私が優しいんじゃなくて、私が君を好きで甘やかしたくて堪らないから、あ、いや、兎に角、君は屋敷からは出ないように。いいね?」 「はい」 紫月さんは少し頬を赤らめて、顔を逸らした。もとより私は屋敷から出るつもりはない。私が紫月さんの行動範囲を狭める杭になるから。夜の凶暴性をおさえつける薬になるから。少し、言い訳だ。本当は紫月さんと一緒に居たい。 「紫月さん、私、九月から気が重くて・・・」 「九月?」 「解剖実習」 「ああ・・・」 紫月さんが人差し指の腹で唇を撫でる。 「ここに居る間も勉強はしっかりとやっておかないと。留年なんて絶対に嫌だし。優君は医者になるのが目的じゃないからかなり気楽にやってるんですけど、それが見ていてつらくなるくらい羨ましい」 「・・・彼のことは嫌いかい?」 「いえ、そういうわけではないんです。ただ、私、海水より膨大なんじゃないかと思う勉強量に息が苦しくなってしまって。ごめんなさい。こんな話をして」 「いいんだよ。どうでもいい間柄の人間には話せない内容だ。そうだろう?」 「・・・久遠寺もそう。羨ましい」 「彼女が?」 「最低な理由ですよ。聞いたら私に幻滅します」 紫月さんは沈黙で先を促す。 「同情してしまうんです。この人、なんにもわからないんだなって。こんなふうになるまでに沢山つらいことがあっただろうに、それをわからないままで生きてこられたんだろうなって・・・」 「それは一種の優越感でもあるね」 「そうです。私の方がつらかったのにっていう、わけわかんない優越感。不幸の自慢。私は久遠寺のことをなにも知らないのに・・・」 「文香さん、一皮剥いでしまえば、人間なんて皆同じだよ」 紫月さんが手の平で、指で、自らの顔を撫でる。妙に色っぽい。そのまま首筋を伝い、左の胸へと滑らせる。 「君も、私も、」 私は、紫月さんと目が合った。 「俺もね」 目蓋が閉じる。紫月さんが心臓から手を離した。 「し、紫月さん、あの・・・」 「うん?」 声は酷く優しい。私は目を閉じ、深呼吸した。 「本当にごめんなさい、久遠寺のこと。船頭さんのことは怒らないであげてくださいね」 「わかっているよ。人間も動物だからね。人語を介しているだけのああいう手合いも一定数存在する。痛みで躾けたって彼女には永遠にわからないだろうさ」 怖い物言いだ。 「隣においで」 私は紫月さんの横に座る。紫月さんは私の後ろ髪に指を絡ませると、キスをしてソファーに押し倒した。 「んんっ」 「んふふ」 歯列をなぞられ、上顎を擦られ、舌を絡めとられる。強烈に甘い香りがする。紫月さんの香り。ちゅくちゅくといやらしい水音になにも考えられなくなる。 「さて、クイズです」 唇を離した紫月さんはにやりと笑う。 「部屋の鍵をかけたかどうか」 答えさせる気は無いらしい。再び口付けられる。 「だ、誰かに、見られたらっ、」 「それがどうした? 私は恋人とキスをしているだけだよ」 首筋に当たる息が、熱い。 「あ、あっ、ま、まさかこのままここで・・・」 「キスだけだよ」 「どうして最後までしてくれないんですかっ」 「我儘な子だね。譲歩して、二十歳になったら、だよ」 「うー・・・」 「ほら、唇で吸われて舌で撫でられるだけで、十分気持ち良いだろう?」 「やめて、う、やめないで、ううー・・・」 「なんて可愛いんだ、文香さん・・・」 ふと、気付いた。 夜の紫月さんは昼の紫月さんを見張っている? 間違いない。 主人格は昼の紫月さんだ。副人格が夜の紫月さん。主人格は現実からの苦痛を回避するために副人格に逃避する。だから副人格の夜の紫月さんは享楽的で凶暴なのかもしれない。今のこの行動も、光景も、見張っているはず。さっきの言葉は、その証明になるだろう。 治療法は、人格の統合か、それぞれの人格の平穏か。 紫月さんが苦しんでいるのなら、私はその苦しみを和らげたいけれど、未熟な私が感情だけで動いていいことではない。私はどうすればいいのだろう。寝ても覚めても紫月さんのことばかり考えている。勉強している最中だって頭の隅では紫月さんのことを考えている。 「紫月さん、当たってますけど・・・」 「ん・・・。私のことはいいよ」 「私がしたいって言ってもですか?」 紫月さんは唇を笑みの形に、歪めた。 「・・・さん、文香さん?」 「あ? ああ、なんですか」 「ぼーっとしてますけど、大丈夫ですか? そこそこ長い船旅でしたから熱中症にでもなったんじゃ・・・」 「優君、お熱はお熱でも恋のお熱ですよ」 「あ・・・、えーっと・・・」 原田夫妻のやりとりに私は非常に気まずくなった。 「はい、ええとですね。調べてきましたよ。平成の切り裂きジャックについて」 優君がそう言い、説明を始めた。 「最初の被害者は二十三年前。それ以降は毎年少なくて二人、多くて八人、犠牲になっています。被害者の接点や共通点は『夜道を一人で歩いていた女性』ということだけ。年齢は最小で十八歳、最長で八十八歳です。被害者は胸の谷間から、」 優君が自分の胸の谷間を指で示し、 「臍の下まで鋭利な刃物で切り裂かれています」 すっ、と指を臍の下まで移動させた。 「そして、臓器がすべて取り除かれている。医学に精通した者の犯行で間違いありません。十八年前に指紋が一つ、十二年前に警察犬がにおいに反応しましたが、解決には繋がりませんでした」 「具体的な被害者の数は?」 「それが、行方不明者も数に入れているみたいで、正確な数はわからないんです。でも五十は確実ですね」 「捕まったら死刑確定やな」 透さんが肩を竦める。 「港町では毎日、警察がパトロールしています。それと自治体が見回りもしていると。それなのに捕まらない。警察内部に犯人が居るのではという噂まであるみたいです」 「九条家から二人も犠牲者が出たのはなんか言われてないのん?」 「あの、それは・・・」 優君は口を噤んだ。 「優君」 透さんが首を横に振る。 「文香さん、酷い現実を貴方に突きつけますよ」 「・・・はい」 「九条紫月は、この島に閉じ込められているのか、閉じ籠っているのか。どちらだと思いますか?」 私は返答できなかった。 「答えは『どちらも』です。若い頃の九条さんは、品がありながらも激情に駆られやすい性格だったそうです。正義感が強過ぎた、とも言われていました。姉に跡継ぎの座を譲る変わりに医者になることを許され、勉学に励みます。無事に医者になった年に見合いで紹介された女性を気に入り、結婚。三年後に妻は妊娠しましたが、難産により妻子共々死んでしまった。産婦人科医であった紫月さんは己の無力を呪い、酷く落ち込んで、目を閉ざした。憔悴して人が変わったように大人しくなったかと思えば、思い出したように激しく暴れ、一族には手が付けられなくなってしまった。九条紫月は跡継ぎを残すための『スペア』として、一族がこの島に閉じ込めて監視し、誰も傷付けないために自らも閉じ籠っていると・・・」 私は妙な違和感を覚えた。 「そんな詳しい話、誰に聞いたんですか?」 「港町に九条さんを見張るための一家が住んでいるんですよ。あの人達の名前も『九条』でしたけれど、血は薄いらしくて、こう言ってはなんですが普通のご家族でした」 「家族構成は?」 「父の正義、母の友恵、息子の博文ですね」 博文。 船頭の名前だ。 「そう、ですか・・・」 博文さんは見張りのために船頭をしているのか。 「実は、屋敷で働いている人間も過去に何度か被害に遭ったらしいのですが、一族の者が襲われたのは誠さんが初めてだそうです。紫月さんはそれで一族に酷く責められたそうです」 私は溜息を吐いた。優君が続ける。 「・・・と、わかったのはこれだけ。『探偵の真似事は程々に』と忠告されました」 「『九条グループ』の恥部ですよね、紫月さんは。そんなに簡単に情報を貰えるものなんですかね」 私の言葉に優君は困惑する。 「僕もそう思います。敢えて情報を提供しているとしたら、」 「紫月さんが目障りな者か、紫月さん自身か、ですね」 「庇わないんですか? 紫月さんは貴方の恋人でしょう?」 「今、庇う必要がどこに?」 透さんが腕を組む。 「平成の切り裂きジャックの決定打はなにもないのに、推測だけで行動するのは愚かなことです。感情で行動するのもね」 そう言いながらも私は感情で行動している。 「優君も言っていたでしょう。『成果は得られないかもしれない』って。それでいいんですよ。さ、もう夕食の時間ですから食堂に行きましょう」 「その前にちょっとええか?」 透さんが悪戯を成功させた少年のように、にやりと笑う。 「文香さん、随分と余所行きの喋り方やなあ? 好きな人の前やからお上品にしてるの?」 「・・・せやで。なんか悪いか?」 「顔赤くしながら凄まれても怖くないっちゅうの。ほな行こか」 別に余所行きだってわけじゃない。関西弁のイントネーションが混じる話し方を紫月さんが好きだというから、敢えてこうしているだけだ。 優君、透さん、順に『ダイヴ』してみる。 (有益な情報を得られた、のかなあ・・・) (あー、腹減った) 嘘を吐いて場を乗り切ったことに対する安堵のようなものは感じられない。 夕食の席。 私の好物ばかりが並んでいる。酢豚、中華サラダ、ワカメと溶き卵のスープ、白米。 「うげっ! 酢豚にパイナップル入ってる!」 久遠寺が食事前に相応しくない声を上げる。 「久遠寺、無理に屋敷に乗り込んどいて飯にケチつけるんか」 「・・・はあー。食べればいいんでしょ、食べれば」 「お前招かれてないんやぞ。振る舞いには気ィ付けろよ」 「ハン! 随分偉くなったものね、このナナフシ女! 金持ちの愛人になったからってなによ! こんな豚の餌、」 「久遠寺さん」 音も無く、紫月さんが現れた。 「私の恋人に無礼は許さないよ」 久遠寺は顔を真っ赤にしている。 「紫月さん、早く食べましょう」 「そうだね。君と食の好みが似ていて嬉しいよ」 結局、久遠寺は酢豚のパイナップルもぺろりと平らげていた。 夕食後は自室に戻り、勉強をする。時間が経過する。キッチンには行かず、睡眠薬を飲む時間の一時間前に紫月さんの部屋に行く。合鍵はさっき貰った。開錠し、部屋に入り、施錠する。リビングから寝室に続くドアが開いていて、薄暗い闇にオレンジ色の灯りが漏れていた。 「こんばんは」 紫月さんはベッドに仰向けになって本を読んでいた。 「び、吃驚した・・・」 「待ってたよ」 「もう隠さないんですね」 「隠す必要もないからね」 本を枕元に置き、起き上がる。そしてズボンのベルトを外して少し脱ぎ、下着をずらした。 「ご奉仕してくれるかい?」 私は唇を薄く開き、息を吸う。頷き、紫月さんの足の間に跪く。 「可愛いね、文香さん」 性器独特の匂いを覆い包むほどの、紫月さんの落ち着いた甘い匂い。 「そうそう。上手だよ。さて、文香さんの不安を取り除いてあげようかな。平成の切り裂きジャックは俺じゃないよ」 紫月さんが私の後頭部を掴み、喉奥まで無理に挿入する。 「そして私でもない。今までの人生で人を殺したのは二人だけ。妻と娘だけだ。どうせ原田達から聞いて知っているんだろう? 私が産婦人科医だったってね。妻は切迫早産で産院に運ぶ最中に死んでしまった。私が冷静になって適切な処置を取っていれば、妻も娘も死ななかった」 苛ついた声と私の呻きがぶつかる。 「君は俺をどうしたいんだ?」 ずるる、と喉から引き摺り出されて、思わず咳き込んだ。 「『切り裂き魔』として警察に突き出して罪を償わせたいのか。これ以上被害者が出ないようにしたいのか。ただ謎を知りたいだけなのか・・・。どれだい?」 「うッ・・・。ゲホッゲホッ・・・。よ、嫁にしたいです・・・」 「は?」 紫月さんの、青天の霹靂のように驚いた顔は初めて見た。 「わ、私、絶対に医者になりたいし、家庭に入って専業主婦とか無理なんで」 「なにを言ってるんだ君は」 「はあ・・・。ケホッケホッ。だ、だから、目が見えてようが見えてなかろうがどっちでもいいんですよ、紫月さんなら。こんな不便な場所じゃ開業医もできないだろうし、もう少し都会の方にですね」 「は、あははっ! あははははっ! 君は本当に面白いな」 紫月さんは心底楽しそうに笑った。 「嫁いであげてもいいよ、俺の文香さん」 「紫月さん、私、薬の時間が・・・」 「なら早く。わかるね?」 私は頷き、再び咥える。唇を窄め、舌を絡め付け、頬でこする。 「歯ブラシと歯磨き粉は用意しておいたから、ちゃんと使うんだよ」 そう言って、紫月さんは私の口の中に射精した。 「はい」 ティッシュの箱を渡されたので、取り出して吐いた。その間に紫月さんは浴室に行ってしまった。私は洗面台で、個包装の高そうな歯ブラシを開封し、新品の歯磨き粉も開封して歯を磨いた。シャワーを浴び終えた紫月さんが私の後ろで身体を拭いている。鏡越しに見ないように顔を背ける。紫月さんは一言も発さずに脱衣所を出ていった。 寝室に戻ると、紫月さんは仰向けに寝転んで目蓋を閉じていた。『ダイヴ』しても思考はない。寝ている。私は睡眠薬を飲み、紫月さんに布団を掛けると、私のために用意してくれていたのであろう枕を拝借して、寝た。 「・・・文香さん?」 問うような声で目が覚めた。睡眠薬がまだ効いているので起き上がるのがつらい。紫月さんは合鍵を渡したとはいえ、横で寝ているのが本当に私なのか確認したいらしい。遠慮がちにだが、ぺたぺたと身体を触られている。私は仰向けに寝ていた。胸を触った時に手の動きが少し止まったが、柔らかさを確認するように何度か手で押された。セクシャルハラスメントだ。そのまま首、頬、髪へ。耳を柔らかく掴むと位置を完全に把握したのか、髪の匂いを胸いっぱい吸うように鼻を寄せられる。そのまま由香さんが『朝食です』と呼びに来るまで怠い睡眠を貪った。 「旦那様、久遠寺様がお部屋から出てこないのです」 真樹さんの言葉に紫月さんが小さく溜息を吐く。 「どうやら我儘な人みたいだからね。いいよ」 「かしこまりました」 少し、嫌な予感がした。 紫月さんの姪の誠さんの時もこんな始まりだった。 気のせい・・・、ということにしたい。 「紫月さん、食事の後にお話をお伺いしてもよろしいですか?」 「ああ、約束通りにね」 紫月さんが微笑む。一体優君達にどこまで話すつもりなのだろう。紫月さんは『『切り裂き魔』は俺でも私でもない』と言った。本当だと信じたい。しかし繋がりがある可能性は非常に高い。 昼食。 久遠寺以外は席に着いている。 「あー、昨日飲み過ぎたあ・・・」 と、馬鹿なことを言って現れた久遠寺の姿を見て、私はほっとした。 「あんた十九歳ちゃうの?」 「それがなにか?」 「あらら。まあええけど・・・」 透さんが呆れる。 「ほんッとムカつく。なんでナナフシ女に恋人が居て私には居ないわけ? どう考えたって私の方が可愛いのに・・・」 「残念ながら私は目が見えないので、久遠寺さんがどれほど可愛いのかはわからないよ」 久遠寺は気に入らないことがあると顔を真っ赤にする癖があるらしい。 「私の恋人に無礼はやめていただこう。追い出してくれ」 真樹さんと由香さんが立ち上がる。 「ちょ、ちょっと待ってよ!! ちょっとした冗談じゃない!!」 久遠寺も慌てて立ち上がった。抵抗するためだろう。 「紫月さん、やめてください。ナナフシ、可愛くていいじゃないですか」 「なにを言ってるんだ君は」 「この暑いのに放り出したら可哀想ですよ。私は気にしていませんから」 「私が気にする」 「可愛い恋人のお願いでも駄目ですか?」 紫月さんは、 「久遠寺さん、次はありません」 と言った。 「なんで私が、こんな目に遭うの・・・?」 久遠寺が啜り泣きながら食事を始める。 最悪の昼食だった。
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